手を動かしていさえすればいい

折り紙のキャンディボックスと江戸切子のグラス  ペン

今日は22度もあり、夏日?と思うほど暖かかった。夕方ウォーキングする時間がなかったので、夜になってから少し歩いたら、汗をかきそうで時どき “冷ま” さないといけなかったほど。でも、明日は8度も気温が下がるというから用心だ。

ここ最近スケッチがなんとなく面白く、時には日に何枚か描く。手軽に、構えずに描けるから、一種の暇つぶし感覚になっている。それに、手のリハビリ。毎日少しずつ手指のこわばりも強くなってくるのを感じるし、機能も落ちてくる。眼も、脳も一緒だから、まとめてリハビリできるからスケッチはお得だ。短ければ30分、長くても1時間もかけないから、心理的な負担もなく、かえって解放感があるから続けられる。むしろ、そちらにハマり過ぎるのを心配しなくちゃならない。

考えてみると、こんなことできる時間は一生のうちのほんの “一瞬” 。大事に味わいたいんだ。

表情

     「少年のかお」   ペン

子どもと言えば、年齢にもよるが「可愛い」から始まって、「あどけない」「無邪気」「輝くような」「エネルギーに満ちた」等々の “前向き” な褒め言葉の羅列に埋まっている。可愛げが無い、疑わし気な、陰気な、反抗的な、などと言う言葉を子どもに見つけ出すとき、「子供らしくない」という一方的な大人目線で、それだけで低評価してしまいがちだ。

映像などでガザの子どもたちの表情を見るとき、小さな子どもにも複雑で大きな不安や心の揺れのあることが、誰にでも見て取れる。ガザのように巨大で直接的な圧迫でなくても、例えば母親がちょっと病気で寝込んだりすると、子どもの顔にもすぐに影が現れる。(子どもは)無邪気で可愛いだけと思いこんでいるステレオタイプの大人の方が、よっぽど無邪気で可愛いと、子どもの方が呆れているかもしれない。

表情をできるだけ消し去り、たとえば素朴な機械式ロボットのようだったり、目も鼻もない、卵の殻のような顔を描いても、見る人はそこに(無意識に)「表情」を読み取ろうとするものらしい。表情を読むことが、人類にとって生きるために必要だったからだ、とも言われているが、たぶんそうなのだろう。

好きな顔、嫌いな顔、誰にも顔に対する自分好みの階級?がある。それは時として対象の顔に自分を鏡のように映しているせいなのかもしれない。一本の輪郭線を修正するとき、微かに混じりこむ「好み」のようなもの。そこにスケッチを描く人のなにかが、きっと写されている。

鉛筆、「削って」ますか?

              「ブリキの鳥など」 黒、青、茶色のペン

各種文書の申請やアマゾンなどのネットショッピング等、文字は専らキーボードによるタイピング入力だけ(スマホならタイピングすら無い)とか、日常のことで鉛筆、ボールペンで文字を書くことがほぼなくなった、という人も多いのではないでしょうか。毎日日記を書くような人でも、いつのまにかペンからキーボードに替わったりしていないでしょうか。あなたは鉛筆を「削って」ますか?

幸い?かどうかは判らないが、わたしは絵を描く都合上、鉛筆もペンも日常的に使う。それでも、たとえば鉛筆の消費量は子どもの頃に比べたら1000分の1くらいに減っていると思う。

アイデアを考えるとき、モニターとキーボードでは用が果たせない。ペンや鉛筆の先と紙との接するところにしか、「掴めそうなアイデア」が浮かんでこないのだ。ペンタブレットもあり、それで制作中の作品の修正や、目先のアイデアを考えたりすることもある。でも、そこはなんだか “居心地が悪い” 。

単なる「慣れ」の問題ではなさそうだ。手や指から脳にフィードバックされてくる感覚とキーボードとモニターによる感覚とでは、これまでの経験とが行き会う脳内での場所が異なる、という感覚がある。時には同じような風景が見える場所だったりするが、時には全く違う風景が見えている、そんな感じ。ともかく、鉛筆やペンの先から伝わってくる微かな摩擦感が心地いい。