絵の価値、絵を描く価値

母の葬儀のあと、何人かの人に「今は何をやっているのか」と聞かれた。「昔も今も絵を描いています」「売れるのか」「今は売る気がない」「それでは絵を描くのは無駄ではないか」「楽しいのはいいが、それで生活できなくては何にもならないではないか」。

説明などする気もないが、絵の道具もないし、暇だから話し相手になってやった。「酒は好きですか」「結構飲む」「それでお金が入りますか」「馬鹿ではないか。酒はお金を出して買うに決まっている」「酒は身体に悪いでしょう」「それはそうだが、ストレス解消でもあるし」「ストレス解消はいいが、それで体を壊し、お金もかかるのは無駄ではないか」。そこまで言うと、たいてい相手は私の意図が解って、突然攻撃的になる。

「だいたい芸術なんて高尚なフリをしているだけで、社会の何の役にも立たない」「芸術がわかるんですか」「何の役にも立たないかどうか、どうやって確かめたんです?」「酒が体、特に脳みそに悪いのは証明済だけど」。まあこれ以上は、仮に腕力に自信があってもやめておく。

「目先の役に立つものは危険だ」と私は思っている。例えばきれいな空気、静かな環境、そういうものはすぐに役に立つものではない。が、「空気をきれいにする機械」「静かな環境を整える会社」、そういう「役に立つモノ」には私の中の警戒警報が鳴る。絵を描くこと、絵を見ることは、きれいな空気や静かな環境のようなものだと考えている。

頭痛

久しぶりに書く。やりにくい。字体も気に入らない。自分のブログなのに、「ようこそ〇〇さん、初めての方はこちら」と案内されて、自分の部屋へ行く感じ。「これがあなたの部屋でしたね」「へー、そうなんですか…私の部屋って。ところでここは誰の部屋なんですか?」。

毎日頭が痛い。ガンガンではなく、ズキズキでもなく、ズッキーンでもない。脳膜の内側に、小さなトゲがビッシリ生えた膜がある、と言ったら近いかもしれない。毎日、ヒリヒリ、チクチクだが、うっかりすると慣れてしまって、気づかないことさえある。それで何ができなくなるとかいう具体例が無いが、それがなければやれるはずの何かが事前に奪われているような。そんな頭痛だ。もう何年も続く。

「頭内爆発音症候群」。ほとんどの人は聞いたこともないと思う。頭の中で(現実には無い)爆発音がする。眠れない、驚く、恐怖感が出る。初めは現実の音だと思って、その度に何事が起きたかと家の外に飛び出した。そのうちにそれは自分の脳が作った音だとわかってきたが、ではどうするかという対策がない。特に眠る時はそれが続けさまに聞こえて、眠ることができない。偶然病名がわかって医師に告げたら、最初は医師も知らなかった。症状は今も続くが、病名がわかっただけで心の負担が軽くなり、音にも驚かなくなってきたが、それ自体は頭痛ではない。

頭痛は続く。今は朝。気持ちよく目が覚める、すると頭が痛くなる。ズキズキでもガンガンでも、ズッキーンでもない。頭の上半分を枕の上に置いたまま出かけたら、どんなにスッキリするかなー、と思う。

そんなことは二度と御免だ

美味しいご飯はうれしい。そんな企画、「家族が喜ぶレシピ」紹介アプリがびっしり。

私も見る。でも、はっきり言えば「御免だね」。美味しいご飯は、1人で作って、1人だけで黙々味わうに限る、少なくともこの国、日本では。「1人で食べても美味しくない」なんて、実によく考えられた女性蔑視の「国宝」的表現だわね。日本という国は、そんな風に女性を「奴隷であることに喜びを感じ(させ)る」教育に実に巧みな国だ。

感謝などされなくてもいい。生きているうちに、小さくても幸せを味わえる方がいいじゃないか。そんな日はもう二度と来ないんだし。

「家族の核」だった、なんて墓の前で線香一本供えられて、それがなんだっていうの?私は「核」だったって?違うでしょ、あなたたち一人一人が「私が核よ」と主張したから、私は一歩引いて「核のステージ」になったんでしょ?

でも、私はただの「被害者」じゃない。「ばかな」というおまけがつく。なんだかんだあるけれど、自分で自分を諦めたのは「自分」じゃないか。諦めるのは「大人になった」からじゃない、「ばか」になったからだ。それが今になってわかるなんて、悔しいじゃないか。