「災害救助隊」を新設すべきではないか

過去数ヶ月の少ないブログを読み返してみると、コロナ(Covid19)関連のことしか書いていない。「コロナ頭」などと、他人を見下したような語を使ったりしているが、自分こそコロナ頭に浸かっていたのかも知れない。とはいえ、やはり誰にとっても目下の主要関心事であることは確かだから、これからも書くには違いない。

阪神淡路大地震以後、いくつかの大きな災害が強く記憶に残る。東日本大震災の復興は今も道半ば。現在進行形の令和2年7月豪雨の様子は見聞きするだけでも胸が痛む。ここ数年の記憶だけでも
・2019年、台風19号、15号:特に関東で長引く大きな被害をもたらした
・2019年、九州北部豪雨
・2018年、北海道胆振東部地震:全道295万戸が停電
・2018年、西日本豪雨
・2017年、九州北部豪雨
など枚挙にいとまがない。その度に自衛隊の出動、体育館に段ボールを敷いただけの避難施設のむごたらしさ。ボランティア頼みの災害支援体制。

日本の災害時の避難所の実態は、世界の「驚愕」と言われている。「失笑」「批判」のレベルではなく、「信じられない!」レベルらしい。少し前まで世界第2位、第3位の経済大国などと胸を張っていた日本の、しかも毎年繰り返し、「想定外」など想定できない、すでに「ルーティン」化した災害避難がこのありさま。ベッドが無いなんてありえない、と工夫してもせいぜい「段ボールベッド」。段ボールから発想が抜けないのだ。私たちは、まるで今も第二次大戦中のような我慢・我慢の経済大国?に住んでいる。もう恒久的な体制を考えるべきではないだろうか。

東京、大阪、愛知、埼玉などで連日のようにコロナ感染者数が最大を更新し続けている状況で、観光旅行を奨励する「GO TO トラベル」政策。観光地の側も期待と不安のジレンマに陥っている。囁かれる次回衆院選のための、なりふり構わぬバラマキだろうと推測する。その予算 1.7兆円。あまり性能が良くないと言われているアメリカ製戦闘機を100機以上、止めてよかったイージス・アショア。それら全額を投じればお釣りがくる。防衛予算だけでなく、税金の無駄な使い方を改め、専門の、恒久的な、自衛隊レベルの「災害救助隊(名称はどうでもよいが)」を、「自衛隊とは別組織として」今すぐ作るべきだと思う。

コロナの4ヶ月

「 ダリア 」   水彩 f10

3月14日から始めた、ビデオ編集。やっと12回分が今日(7月15日)終わった。ぴったり4ヶ月かかったことになる。この間に、初体験のビデオ制作以来、18本のビデオをアップロードした。

4ヶ月間、毎日平均10時間ほど、パソコンに貼りついたまま過ごした気がする。ニュースもラジオで聴くだけ。おかげで必要以上に「コロナ頭」にならずに済んだのかもしれない。自粛警察が登場するなど、世の中がコロナ頭だけになるのではないか、コロナ・ウィルスよりそちらの方が怖い気がした(実は今も)。

ジョージ・オーウェルの「1984」の怖さをあらためて感じる。感染防止にかこつけて、行動履歴から自分が「濃厚接触者」であることを教えるアプリを政府が配っている。そもそも「接触」では細菌の場合と違い、感染の可能性が低いこと。可能性が高いのは飛沫吸入による感染だが、こちらはマスクでは100%無効であることは、学者たちのほぼ一致した見方だ。アベノマスクのウィルスからの防御能力も、もちろんゼロである。例え1%でも、などと非科学的な幻想は持たない方がよい。ただし、自らの飛沫放散を抑える効果はある程度あることも確からしいから、まるっきり無駄というわけではない。

武漢での発生確認から7ヶ月以上経って、これらのことを見聞、経験してきた。緊急事態宣言からはまる3ヶ月。感染は再び拡大してきたが、今度は経済界(って誰のこと?)の要請を受け、「GO toキャンペーン(全国的な旅行奨励策)」を前倒しで実施するという。頭が狂っているとしか思えない。こういう政策を立案したり、応援する人々の頭には、逆に、コロナウィルスを注入してやる方が、よい薬になるのではないだろうか。

「コロナ」の2ヶ月

「錦糸に輝く蘭」を治療中

コロナの影響を直接感じるようになってから2か月。今の様子では25日にも非常事態宣言が解除されそうだという解放感なのか、単に、政府主導でマスコミが広げる「新しい生活様式」を受け入れ始めているということなのか、「新しい日常」がすでに始まっていると感じるようになった。

制作しながら、NHKラジオアーカイブスで「小田 実(まこと)」を聴いていた。聴きながら、描きながら、いろんなことを考えた。

彼の肉声を聴いていると、今まさに目の前に起きていることを前提に話しているように感じる。内容が古くならないというより、彼が提起した問題がほぼ未解決のまま、今も目の前にあるからだろう。

もう50年近くも前の話が、今も古くない、ということは一歩も進んでいない、ということでもある。下手をすると後退でさえある。たとえば「自由」について。(自分のことを考えられる環境、すなわち奴隷的でない環境があるなら)おそらくは一生のうち、誰でも一度はそのことについて考える(考えた)はずだ。で、その考えと現在の自分がどうつながっているか。「コロナの2ヶ月」は、いろんな意味で無駄ではなかった(過去形?)と思う。