誰にもあって、一つも同じでない

不思議なことに、母の死は「死」ではなく、単に苦しみのない安らぎであり、体は「死体」ではなく、物でも偶像でもない、ある意味で中途半端な「何か」だと私は感じていた。

死亡診断書を貰い、真夜中の病院から母を乗せた車で自宅に向かう間、私は(きっと興奮していたせいもあると思うが)特に悲しいとは思わなかった。むしろ、吸入マスク、チューブや各種の点滴、医師・看護師などの「介在者(物)」なしの、やっとストレートな「肉親」に戻れたような気分で、毛布にくるまれた母に話しかけた。「家に帰るよ」

「おっぱい」と血は、基本的に同じものだ。女性なら誰でも知っている医学的事実が、男性には案外知られていない。でも、それは感覚として哺乳類全てに共通知覚されていると私は感じる。私たち(野生動物も含め)はみな、それぞれの「母の血」を吸って育ってきたのだ。

火葬の直前まで母の頬を何十回も触った。冷たいというより、気持ちがいい(葬祭業者の「冷却器」のお陰ですが)。そして骨を拾った。束の間の、擬似的な介護の真似ごと。私が吸ったはずの母の萎びた乳首、見られることを最初は嫌がった便の始末。私の幼、少年時代の全てを見てくれた、いくつかの骨を持ち帰った。

絵の価値、絵を描く価値

母の葬儀のあと、何人かの人に「今は何をやっているのか」と聞かれた。「昔も今も絵を描いています」「売れるのか」「今は売る気がない」「それでは絵を描くのは無駄ではないか」「楽しいのはいいが、それで生活できなくては何にもならないではないか」。

説明などする気もないが、絵の道具もないし、暇だから話し相手になってやった。「酒は好きですか」「結構飲む」「それでお金が入りますか」「馬鹿ではないか。酒はお金を出して買うに決まっている」「酒は身体に悪いでしょう」「それはそうだが、ストレス解消でもあるし」「ストレス解消はいいが、それで体を壊し、お金もかかるのは無駄ではないか」。そこまで言うと、たいてい相手は私の意図が解って、突然攻撃的になる。

「だいたい芸術なんて高尚なフリをしているだけで、社会の何の役にも立たない」「芸術がわかるんですか」「何の役にも立たないかどうか、どうやって確かめたんです?」「酒が体、特に脳みそに悪いのは証明済だけど」。まあこれ以上は、仮に腕力に自信があってもやめておく。

「目先の役に立つものは危険だ」と私は思っている。例えばきれいな空気、静かな環境、そういうものはすぐに役に立つものではない。が、「空気をきれいにする機械」「静かな環境を整える会社」、そういう「役に立つモノ」には私の中の警戒警報が鳴る。絵を描くこと、絵を見ることは、きれいな空気や静かな環境のようなものだと考えている。

頭痛

久しぶりに書く。やりにくい。字体も気に入らない。自分のブログなのに、「ようこそ〇〇さん、初めての方はこちら」と案内されて、自分の部屋へ行く感じ。「これがあなたの部屋でしたね」「へー、そうなんですか…私の部屋って。ところでここは誰の部屋なんですか?」。

毎日頭が痛い。ガンガンではなく、ズキズキでもなく、ズッキーンでもない。脳膜の内側に、小さなトゲがビッシリ生えた膜がある、と言ったら近いかもしれない。毎日、ヒリヒリ、チクチクだが、うっかりすると慣れてしまって、気づかないことさえある。それで何ができなくなるとかいう具体例が無いが、それがなければやれるはずの何かが事前に奪われているような。そんな頭痛だ。もう何年も続く。

「頭内爆発音症候群」。ほとんどの人は聞いたこともないと思う。頭の中で(現実には無い)爆発音がする。眠れない、驚く、恐怖感が出る。初めは現実の音だと思って、その度に何事が起きたかと家の外に飛び出した。そのうちにそれは自分の脳が作った音だとわかってきたが、ではどうするかという対策がない。特に眠る時はそれが続けさまに聞こえて、眠ることができない。偶然病名がわかって医師に告げたら、最初は医師も知らなかった。症状は今も続くが、病名がわかっただけで心の負担が軽くなり、音にも驚かなくなってきたが、それ自体は頭痛ではない。

頭痛は続く。今は朝。気持ちよく目が覚める、すると頭が痛くなる。ズキズキでもガンガンでも、ズッキーンでもない。頭の上半分を枕の上に置いたまま出かけたら、どんなにスッキリするかなー、と思う。