柔軟なこころ

ウォーキング中。誰かがきれいに枯葉を掃いているようです

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。さて、恒例の箱根駅伝はコロナ禍下無事開催され、駒澤大学の劇的な逆転優勝で終わった。「最後まで諦めない」が心に残った、とラジオ解説の金 哲彦さんが言っていた。

確かにそうだ。と同時に、「ブレない心」というのも最近までよく聞く言葉だったなあ、とウォーキング中実況を聴きながら考えていた。

何かを達成するには、確かにそういう気持が必要なことがある。けれど、だからといって私は100%賛成はしない。そういう一心、一途さは、どんな場合でもある種の危うさを含んでいると思うから。それに、そういう気分を醸成する環境にも、なるべく冷静に距離をとって見ようとする。

私は柔軟な心を愛する。優柔不断とは違う。ある時は毅然として決断しつつ、間違っていると思えば躊躇なく自分の考えを改める、そんな心を愛する。けれどそんな心を持つことは簡単ではない。つい、意地を張り、自分が間違っていることがわかっても、ぐずぐずと理屈をこねてしまう。正しいか間違っているかということと、勝ち負けは次元の違うことだと頭ではわかっていても、誤りを認めることは負けることのようについ感じてしまう。まだまだ了見が狭いのだ。今年はちょっとだけでも「柔軟なこころ」を持ちたいな。

ダイエット

「ホネ貝と西洋梨」 水彩 F4

メタボ予備軍との判定をきっかけに、渡りに舟とウオーキングを始めたことは何度も書いた。早朝ウォーキングが以外に気持ちよく、それが続けられた理由であることも書いた(急激に始めたせいで少し膝を痛め、自重中)。プラス面だけでなくこんなマイナス面もあるが、足腰がしっかりしてきた実感もある。

けれど「メタボ予備軍からの脱却」という目標から考えれば、まずは「体重を減らす」ことが最優先課題だ。運動は健康には有効であるものの、体重減少という点ではあまり有効ではない。本命は「カロリー制限」である。

前提条件として、自分の「適正体重」というものをまずは知ることから。多くの人にとってはすでに常識なのだろうが、自分としてはまともに向き合ってこなかったから、基礎知識が全然足りないことを感じた。私の場合、適正体重は現状から-10kg。だが、それはすでに「絶望的」。

私は「適正体重」の方を諦めることにし、とりあえず2ヶ月で―2kg。これならたやすく達成できそうだ(と最初は思った)。目標体重と仕事の内容(肉体的か事務的かなど)から、必要カロリーを計算する。私の場合、体重1kgあたり25~30kcalとして、それからここ数日に実際に摂ったカロリーを計算してみると、「恐ろしい」現実が・・・。気を取り直して、目標カロリーを「3食+おやつ」に振り分け、実際のメニューとカロリー表とを試算してみると、にわかにメニュー」が「仮想現実」感を帯びてくる。「小太り」のままでもいい理由を探しはじめる…。

早朝ウォーキング

氏子の人たちが境内で落ち葉を燃やしているところに遭遇(7時半ころ)

今朝(12/18)で、ウォーキング歴ちょうど1ヶ月。とりあえずウォーキングは続いている。特にここ数日は夜明け1時間前に飛び出していく。最低気温が氷点下になってきたが、もともと寒いほうが好きなので、その点は全く苦にならない。雪でも降ったら、喜び勇んで外に飛び出すタイプ(まるで犬だ)。

私の場合、健康維持だけが目的ならウォーキングは続かない。実際、これまでそうだった。では、なぜ今ウォーキング?と言われれば「寒くなってきたから」が、たしかに本当の理由なのかもしれない。

中学生の頃は、雪の林の中を一人で歩くのが好きだった。早朝ならなおさら。ピリピリした冷たい皮膚感覚と、「一人でいること」が気持ちよかった。「冬の早朝ウォーキング」は、そうした、いわばちょっとだけ動物的な感覚を取り戻す機会になっているのかもしれない。そういう意味では、夏にはもうウォーキングはしていないかもしれない。

それにしても、早朝ウォーキングの人の多いこと。これは私の「一人」感覚を阻害する。それでも、よく観察していると、多くの人は私同様、「一人だけで歩く」ほうを好むように見える。夕方は歩かない。自転車でウォーキングならぬウォッチングに時々行くが、公園の周囲など、まるで隊列を組んでいるかのように続々と人々が歩いている。とてもその中で歩く勇気は湧いてこない。人々の健康志向の強さが、ある意味すこし不気味だからかもしれない。健康志向が強いということは、逆に言えば常々将来の健康に不安を感じていることの裏返しなのだろうか。健康を崩すということが、どんな悲劇をもたらすか、日々ニュースなどで肌身に感じるからなのかもしれない。その点には私は鈍感らしい。