坦々と

アジサイ(CGスケッチ)

「坦々としている」ひとはわたしにとっては「カッコいい」。ごくごく小さい頃から、わたしは自分がパニックに弱い人間だと自覚していた。そしてそれは数十年たった今も変わっていない。

人間の世界では、わたしは間違いなく「臆病なひと」。勇気なんて持った記憶はないし、団体で行動するにしても3列目がせいぜいだ。先頭で旗を振る人はもちろん格好いいが、それよりカッコいいと思えるのは旗を持たずに先頭に立つ人であった。

わたしにとってのリーダーシップは、つねに先頭にあり、責任を一身に引き受けてなお「坦々としている」ことだが、それはわたしとは正反対。そんな人にあこがれるのは当然だとしても、あこがれるだけで、けっしてそういう人になりたいと思わないのが「臆病」ということだろう。子どもの頃のわたしを、母は「怖がり」だと笑っていた。恥ずかしかったが事実だからしょうがないと、あえて反論などした記憶もない。

年を取ったせいか、「坦々と」の意味がリーダーシップとは無関係になり、文字通りの「坦々」に変わってきた。「坦々と生きる」ことが実は意外に難しいと感じてきたからだろうか。最近のわたしは以前より少し(事前に)準備するようになった。いや、そうしないと何もできなくなってきたのである。以前はすべてが「行き当たりばったり」。それを若さと間違えてくれた人もあるが、実態は、未来を想像し、それに備え、準備する感覚と能力がなかっただけだった。振り返ってみると、これまで何とか無事に来られたのは単なる幸運ではなかったかとさえ思える。転変の激しい現代では、そんな偶然性だけであらゆることを乗り越えていくのは無理だと、やっと多くの人の通った道をわたしも踏んだからなのかもしれない。

初心に帰り「過ぎ」?

こんなバカバカしい画像でも・・・(CG)

バカバカしいほど単純なこんな画像でも、すったもんだしたあげく、何時間もかかって描いた。illustratorという、名前くらいなら誰でも知っているアプリで。このブログでもすでに何回かillustrator製の画像をアップしているが、今回の画像はその中でもとびぬけて「バカバカしい」。たとえば青いカモメ展のDMデザインも、実は同じillustratorで描いたものだ。

このアプリの公式チュートリアル、入門のステップ1を真似して描いた。illustrator自体はもう20年も前から使っているが、絵を描くときは別のアプリを使い、こいつはもっぱらレイアウト用。一年に数回使うだけだったが、心の奥底では「こいつを使いこなせたら、もっと何か面白いことができるだろうなぁ」と思ってはいた。それがコロナのおかげで?全くの初心者に戻ってみたのだった。

コレには図形ツールというのがあって、このような単純な図形、単純な塗りなどに使われる。熟練の人の絵を見ると、この単純な図形を恐ろしいほど巧緻に使いこなし、逆にこの単純さを武器にしていることがわかる。—わかるが、やる気がしなかった―難しく、面倒で、それを覚えるための時間を考えると、とても無理だと思った。今もまったく考えは変わらないのに、なぜか踏み出してしまったのは、「もしもコイツを使いこなせたら・・・」という心に巣食ってしまった誘惑と、すでにわたしの脳みそがコロナに侵されてしまったせいなのかもしれない。

こんな調子ではいつ挫折してもおかしくない。だって自分がバカになったみたいで、本当につらいんだもの―ぜんぜん面白くないし。でも、勉強ってそんなもんじゃん、ってロバ的な耐久力だけは人並みにあるのよ。数学もぜんぜんできない(今も)が、もしも数学が分かったらきっと世界の見え方が違うよなーという憧れがある。数学はもうチャレンジできないが、コイツはもうちょっとだけ粘ってみようと思ってるんだ。

傲慢(ごうまん)

「クレマチス」 (CG) 

「傲慢」とは「思い上がっている様子」とか「人を見下したような態度」のこと。人で云えば「鼻持ちならない」奴ってことだが、それが「自分のことだ」と多くの人は思わない。でも実際は―わたしもあなたも「嫌な奴」、かも知れません。

「自分」は自分の心(こころ)に対してはヒカクテキ謙虚で、意外に弱音を吐いたり…欲望を正直にトロ(吐露)したりする。だから、つい自分は「正直者で」かつ「謙虚」だ、なんて思ってしまうのだが、どっこい「他人から見た自分」というやつは、「自分から見た自分」とはとりあえず別人と考えておく方がよさそうです。

自分は「お金持ち」の中には入らない、と(日本では)多くの人が思っているらしい。そりゃあビル・ゲイツとかジェフ・ベゾスに比べれば、ね。でも、隣の家よりいくらかは余裕があると思っている人は9割くらいはいるのではないか。あるいは、日本全体の平均よりちょっと上と思っている人も7割くらいいるのではないか(算数的には合わなくても、ここは感覚的に)。

欲しいものを何でも買えるほどの財力はないが、とりあえず当座の生活に不安はない—そう思える人は(わたしの勝手な定義によれば)いちおう「お金持ち」だ(うれしい?)。—貯金通帳をわざわざ見せてくれなくても結構です。感覚的な話ですから。

—でも、そこが「傲慢」の出発点。実際にはよそよりお金がなくても、「隣よりマシな何かがウチ(自分)にはある」と思うだけで、人は簡単に「傲慢になる」。そう、小さな「優越意識」が「傲慢の種」。誰だって「小さな優越意識」くらいは持ちたいし、精神衛生上もそのほうがプラスな気もするもの。—「正直」「謙虚」という自己肯定感とも矛盾しないし。(この項続き)