手でさわれるもの

          「いま机の上にあるもの」  黒と茶色のペン

バーチャル、フェイク、AIという単語に慣れ過ぎて、既に「そういえば昔聞いたなあ」感がある。それにSNSとかYouTubeも加わるだろうか。とにかくそういうものが当たり前すぎて意識すらされなくなってきている。

けれど、それらはみな「画面(モニター)上」にあるものばかり。世界中の美味しい食べ物も、美しい自然の景観も、憧れの有名人もみなモニターの上で魅力を見せつけてくるだけ。何万もの「いいね!」がついても、食べることも、その空気を吸い込むことも、その人の手を握ることもできない。自分の目の前に在るのはいつものキャベツにアジフライであったり、少し剥げかかってきたカーペットだったり、ちょっとくたびれた妻や夫であったりだが、それらはみな、自分の手でさわることができる。自分の身体と直接繋がっている。

バーチャル、フェイク、AIもYouTubeもうたかたの夢に過ぎない、とまでは言わないし、そこに大きな価値があることもある程度は知っている。ウーバーイーツで頼んだものでも、届けばちゃんと手でさわれ、美味しく食べることができる。どんなにシークレットサービスが唇の前に人差し指を立てても、それをトランプの飛行機が到着する前にSNSで知ったたくさんの人々がカメラを構えて待っている。うたかたの夢どころか、それが現実の一部。その仕組みに「さわれること」はむしろ危機を生む。
 でも、さわれないことはやっぱり、嘘を生みやすい。

手でさわれるものには信頼感がある。それは単なる感傷ではなく、生き物の知恵の塊だったから。一方、一見さわれるものと思っているわたしたちの使う、たとえば調味料の成分、○○酸◇◇だのにはさわれない。だから嘘が混じりこむ余地がある。自分で買った昆布や椎茸、鰹節でつくった出汁なら、嘘の入りこむ余地はずっと小さくなるだろう。
 紙にペンで描いても。デジタルで描いても、どちらも絵であることは間違いない。けれど紙に書いた絵は、紙もインクも手でさわれるモノであるのに対し、後者はデータ(数値)というさわれないもの、という絶対の違いがある。それぞれにそれぞれの場があることが大事だなあと思う。

柿を描き忘れる

           「筆柿、次郎柿」  黒と茶色のペン

柿は美味しい。夢中で食べてしまってから、アッ、今の描いておくんだったと、もう最後のひと切れが喉の奥に落ち込む直前になって思いつく。なんでもそう、目の前のことだけになってしまってはいけない。

トランプと習近平が、いま激しく角突き合わせているトランプ課税をめぐって会談した。トランプによれば「10点満点中の12点」で合意したそうだが、とりあえず1年間という様子見合意に過ぎない。レアアースと半導体技術で、お互いが「やらずぶったくり」の腹の中。目の前のことだけにならないかどうか。

         「青柿」 水彩、ウォーターフォード紙(荒目)

絵のモチーフとして玄関に置いてある青柿もだんだん黄色になってきた。しばらく雨模様の日が続き、そのせいか気温もグッと下がった。昨日、今日は晴れたが太陽にももう夏のようなエネルギーは無く、秋らしい爽やかさが一年ぶりに戻ってきた。

この青柿を頂く前に、すでに赤い柿をたわわに吊り下げている木がいくつもあった。たぶん柿の種類が違うのだろう。甘い実は西欧でも人気があり、特にスペインでは生産も盛んで、中国に次いで世界2位の生産量だという。
 ウィキペディアを見ると北海道南部から九州までのほぼ日本全域に育つとある。松尾芭蕉に「里古りて柿の木持たぬ家もなし」という句があり、そのまま読むとウィキペディアの記述と一致するかのようだが、かつては福島県以北では柿はほぼ生育できなかったと記憶する。東北を旅した「奥の細道」の作者には生産限界が見えなかったのかもしれない。

柿は「カキッとしてなくちゃ柿ではない」という人が結構いる。硬めのカキカキ、シャリシャリの食感が命、ということだろう。わたしなどは北国育ちだから、木に生っている柿の実物を見たことがなかった。流通の悪い当時では、そんなカキッとしたものは手に入るはずもない。内側が甘くトロトロになりかけたやつしか食べたことがなく、それが柿というものだと思っていた。今でも、どちらかというとカキッよりはトロッの方が好きである。

スケッチは水彩だけでなく、アクリル絵の具を下地として少し使っている。水彩だけにこだわらず、効果があれば何でも使えばいい。今見えている効果を、水彩だけでやろうとすると案外大変なんじゃないかな。