マイ・ビジョン

手(制作中・部分) アキーラ  2011

息子に言わせると私にはビジョンが無いのだそうだ。会社の仕事で忙殺されているサラリーマンならともかく、言ってみれば自営業である画家が、仕事の上でも経営の上でもビジョンを持っていないというのは、どうにもならない存在だというのである。

確かにそうだ。今の私にはビジョンが全然無い。その日暮しである。決して呑気にしているわけではなく、実際にはとても焦って、緊張しているのだ。が、何も手に付かない、出来ないのである(開き直りではない。現実)。ということはビジョンだけでなく、問題把握能力も無く、とうぜん問題解決能力も無いということになる。ついでだから自分について「何が」どれほど無いのか数えてみることにした。

まず①金が無い=生活力が無い。②問題解決のための知識が無い。③それを求めるための知識欲が無い。④向上心が無い ⑤行動力が無い ⑥気力が無い ⑦体力が無い(無駄な体力は有り余っているくせに)⑧家族に対する優しさが無い(これは毎日のように言われるのだから、家族は私の為に本当に苦しんでいるのだろう)⑨家族への配慮が無い ⑩家族の心情への理解が無い、その気持ちも無い ⑪情報センスも無い(致命的なほどだそうだ) ⑫語学力を始め、学力が無い ⑬世間常識が無く、見方が偏狭である ⑭想像力が無い(昔はあったかも知れないが今は枯れた)⑮絵画センスも無い(あれば、今頃もう少しはマシな画家になっているだろう)⑯冒険心も無い(あらゆる面において) ⑰競争心が無い(あるのは家族に対する凶暴な闘争心だけ。殆ど暴力親父だ)。他人に対しては一見謙譲の心があるように見えるが、実は負け犬根性 ⑱「好奇心」が無い(他人のプライバシーに目を向けない) ⑲自己に対する管理能力が無い(毎朝禁酒宣言するのがその証拠) ⑳自分を外から客観視する能力が無い(いつも自分だけが良い人である) 他にも自分の感情をコントロールできない、冷静な状況判断能力が無い(特に、相手がうるさがっているのに、得意になって説明したり。これは人間観察力、洞察力が無いことによる)、強調性が無い(自分だけが正論だと思いこむ)、 コミュニケーション能力が無い(なぜか嫌な気分はちゃんと伝わるが)、人を公平に見られない(そもそも公平とは何かが分かっていない) 、正義感が無い(罪悪感は一杯だが)、など数えきれない無能力。

これほど能力の無い人はそうそう居ないのではないか?とすれば、それ自体凄いことではないか、と自分をフォローする、自己可愛がりの能力だけは抜群とお墨付きを頂いた。

防災グッズ

パンジー F6 アクリル 2011

防災ブームにあおられて、我が家でも水を2ケース買った。2㍑×6本×2ケース=12本=24㍑。妻が買うと言うから車で運んだ。水は1人1日4㍑で計算する。最低3日、出来れば2週間を備蓄すべきだという説に従うと、我が家は3人だから3人×4㍑×3日=36㍑が最少限。それに満たない中途半端な量の根拠は「だってお金かかるし」「場所も取るし」。確かにいざとなれば無いよりマシだが、2ケースの根拠が極めて貧弱。

私の知らないうちに彼女はライトも何種類か買っていた。そのうち電池の要らない手回しライトは試用中に壊れたし、ごく普通の手提げライトは何度か押しているうちにスイッチが戻らなくなった。数日前、電器店に行ったら私が現在愛用しているものと全く同じ型のLED小型ライトが山積みになっていた。全く同じ物なので、それらが不良品であることはすぐ分かったが、値段は逆に倍近く高くなっている。お店でもそれが不良品であるとは分からないのかも知れない。一応点灯するし、明るさもある。LEDライトの色が分離しているので不良品と分かるのだが、使ったことのない人にはおそらく分からないだろう。スイッチも異常に固いが無理に使えないことはない。しかし、ちゃんとしたものはラクラク使えるのだ。これはメーカーの良心の問題だが、どさくさの防災グッズ市場には、このような本来なら廃棄されるべき製品でさえ、ある程度出回っているに違いない。防災をグッズで安心したい心理につけこんでいるわけだ。

「ナショナル・ジオグラフィック」という米国発の雑誌がある。これは世界中の地理、風土から、生物学(生態学)、時には社会問題、宇宙・天文までおよそ人間と世界・地球に関わることすべてがテーマになっている。一本の記事は短いがどれも内容は深い。パソコンから資料をとって、机の上で作り上げるマスコミ論文の類ではなく、著者が実際に現地を歩く、写真とフィールドワークに徹した雑誌である。レポーターはほぼ全員それぞれの分野で活躍中の現役の学者やカメラマンで、この雑誌の為に何人ものカメラマンが命を落としているほどの、写真の迫力は別格だ。地球と人間社会への、本物の「探検の本」である。

その中で今年8月29日(1週間前)に発行された「世界のどこでも生き残る 完全サバイバル術」(2400円)を読んでいる。探検の準備・知識と防災への意識・備えは共通するものが多い。我が家のような、ヘボい防災グッズを買う前に一読したら、「防災」そのものの意識が変わるだろう、というより、より核心的な考え方のヒントを得られるだろう。震災をダシにむざむざいい加減なものを買わされるよりは、こちらの方がより優れた防災グッズだったのではないかと思う。2011/9/4

私の中のジャングル

シェルターの男 ミクストメディア F4 2011

民主党の野田政権が発足。ホオーッ!という感じだったが、まあそれなりかなと思う。その中で細野剛志原発担当大臣が再任。「この仕事をやりたい人は誰もいない。(私も)なにが何でもやりたいという気持ちは微塵も持っていない」。何ですか、この発言は?誰もやりたい人がいないから仕方なく(嫌々)やるという意味でしょうね?もしもポストに汲々としているわけではないと言いたいのだとしたら、あまりにも言葉足らずだ。京都大学の法学部出身で、現三菱UFJ総合研究所のリサーチ&コンサルティングの研究員をスタートとするキャリアにしては、中学生レベルの政治感覚しかない発言だなと思う。新内閣の閣僚インタビューという場の認識があるのだろうか?思えばこの国の政治家の、自分の言葉に対する政治感覚の欠如ぶりには呆れるというより恐怖を感じる。こういう連中が海外で何を喋っているかと思うと恐ろしいが、幸い?にして大多数はほとんど英語が出来ないらしいから安心?

政治など庶民の生活には関係ないやと目先のことにかまけた結果、私たちが生み出した政治貴族たち。彼らもまた庶民なんか関係ないや、と思っているのだろう。おあいこだとしたら、あまりにも哀しい現実だ。リビアやシリアでは若い人たちが命をかけて新しい政治、自分たちの政治を作ろうと戦っている。勝っても厳しい前途だが、その息吹はまるで幕末の志士達にどこか通じるようだ。世界はまだまだ若いのだ(逆にいえば日本はもう老いくたびれてしまったのだ)と、彼らの貧しさの中にもある種の羨ましささえ感じさせられる。

話題は180度近く変わる。ここ数年、得体の知れない怪物ともつかぬ、巨人のような 「男」と題する作品を発表し続けている。いつだったかギャラリートークで、その巨人の解説をした。毎年同じ話をするのもつまらないのでその後は内容を換えて話しているのだが、その時の解説で言わなかったことが(実は言いたくても言えなかったのだが)、ずっと私の中で反芻を繰り返している。「どうしてこういう絵を描くようになるのだろう?」ということだ。

それは表現の意図とか、内容とかいうものとは全然違う。ここ数年続けていると書いたが、さらに事実を言えば小学生の頃から既に今のような絵は時々だが描いていた。数年から十数年の間隔を措いて私の中に現れる、グロテスクと人に言われる絵。そのことが何を意味するのか私にもまだ分からない。だから人にも説明しようもない。自分の中の未知の部分を知りたい、あるいは未開の部分に入り込むのを畏れるような、そんな気持ちをずっと持ち続けている。  2011/9/2