ただのデザインじゃないか

初夏の Apple  (CG)

この絵を見たら「ただのデザインじゃないか」という声が聞こえてきそうだ。デザイナーからは「ただのデザインの『ただの』とは何だ」という声も同時に聞こえてきそうだ。

わたし自身も、これじゃ「デザイン以前」だと思う。たいていのデザインにははっきりした(社会的、商業的)な目的がある。一方、(現代の)絵画にはそういう意味での目的はないが、作者個人の生存意義を深め、「社会との違和感」を作り出すことによって(広い意味で)社会の変革を促す力になる。それが絵画だとするならば、ずいぶん薄っぺらく、とてもそんな力などどこにも入っていないように感じるだろう、ね。

そう、「薄っぺらい」よ。人々が「絵画(芸術)」に求めるものは「人生」とか「哲学」の深さ、重厚感だろうが、これはペラッペラに「薄っぺらい」。「これを『絵』だと言うこと自体、お前の薄っぺらさを示している」というお怒り。ごもっともでござんす。

反論などござんせん。でも、あなたの健康に悪いので、もうちょっと落ち着いて血圧を下げてもらって、いましばらく我慢しておくれやす(我慢のお駄賃はでまへんが)。

パソコンとつき合う

おとなしい Apple  (CG)

今日もイラストレーター・アプリの練習。昨日と今日の午前中いっぱいかかって何も作れなかった。一つ一つのツールについて調べる時間が長く、なかなかしんどい。おまけに昨日はウォーキングで先日痛めた足を悪化させてしまった。数日はウォーキングも”jisyuku”だ。

 毎日パソコンに向かうと、当然ながら少しずつパソコンのことが分かるようになってくる。パソコンと自分との接し方も考えるようになってくる。パソコンを友人と考えるなら、こんなに有能で頼りがいのある友人なんて滅多にいるものじゃない。そのうえ、どんな無理難題を吹っかけても腹を立てるでもなく、差し出がましい口も利かない。森さんも「女性のいる会議は長い」などと言わず、オンラインの会議に慣れたほうが何倍も良かった。

脱線してしまったが、「パソコンのことが分かるようになる」とは使えるようになるということではない。パソコンと自分との違い、考え方の違いを感じるようになるという意味だ。パソコンにはハード、ソフトの開発者の歴史が、わたしにもこれまでの人生経験があり、それがお互いの現在の考え方や行動の基準になっている。その違いを認めないと始まらないということだ。パソコンの考え方に近づけばパソコンは素直に働くし、考え方が違えばギクシャクする。人間と同じ。

一方で、パソコンはある意味で「社会」そのものでもある。「世界」と言ってもいい。もう「架空」ではなく、すでに現実である。スーパーでお惣菜を買うのが現実なら、パソコンで冷蔵庫を買うのも現実だ。学校で授業を受けるのが現実なら、先生がパソコンで勉強するのも現実だ。パソコンとの接し方は自分が主体であるかどうか、そこにかかっているように見える。自分にとって何が大切で、どうなれば自分が幸せになれるのか、そのためにパソコンが有用なら仲良くなればいいし、要らないなら使えなくても何の問題もない。そこはまだ現実の方が、現実になっていない。

ちょっと練習して、すぐ凹む

「ロゴマークの練習」(Adobeチュートリアルを手本にやってみた)

「イラストレーター」という大きなアプリがある。すでにアプリの老舗といえるほどの歴史がある。イラストレーターというくらいだから、(人間の)イラストレーターにとって習得はほぼ必須なのだと聞いている。実はわたしも20年以上前に買った。難しすぎて何もできず、十年くらいほったらかして、ここ数年は年に一ヵ月だけ契約して、DMを作りに使うだけになっていた「絶壁のアプリ」。

それを昨日から再び始めた。昨年暮れに一年契約したから、もう3ヶ月も無駄に経った。決してサボってばかりいたわけでもなく、同時に新旧あわせて十数個のアプリを一度に購入したので手が回らないのだ。ipad Air 4というタブレットも買い、コロナを機会に半分は自分を変えるつもりで意気込んでみた。毎日朝からパソコン、タブレットをいじり、初めて見るアプリをいじり、「絶壁アプリ」のPhotoshopとIlustratorにもとうとう再挑戦。

やってみると、一つ覚えるのにも想定の数倍、数十倍の時間がかかる。たとえば上の写真のロゴマーク作りの練習課題にも、朝8時からほぼ丸一日。出来たのは午後11時だ。できる人なら10分もかかるまい。恥ずかしいが、それでもまあ普通らしい。ビデオを繰り返してもどうしても解らないところを、ご飯時とかに息子をつかまえて聞く。彼は数回画面をリピートさせるだけでスラスラと解く。モノの数分もかからない。説明を3回繰り返して10分経つと彼は去る。わたしは3回聞いても「・・・」だが、それをヒントにまた数時間粘る。ギブアップメールで写真を添付してまた尋ねる。律儀にメールを返してくれるのが申し訳ない。なんでこんなことやろうと考えてしまったのかと反芻しているうちに、何となく出来ちゃった・・・。

「絵が描けなくても生きていけるけど、パソコン(スマホ)ができないと買い物も病院にも(ごく近い将来)行けなくなるよ」と息子は言う。無人コンビニが実際に増えつつある実情を考えると、そういった世界への過渡期なんだなとは思う。でも、一様にずるずると流れるほど地球も平らではないぞ、とも思う。

わたしが画像・映像アプリを買い、その一つ一つを試している理由は、必ずしもそうした現実(かどうか)に対応しようとしているだけではない。既存の油絵、水彩画その他の限界を感じているからでもある。難しいし、(機材代を考えると決して安いとも言えない)コストがあっても、パソコン描画アプリは優れた画材だ。しかも日々進化しつづけている。好きでも嫌いでもそれは自由だが、無視はもうできないよ。