基本練習が不足:GABAN ブラックペパー

GABANブラックペパー (油彩・未完)

このブラックペパーはすでにCGスケッチで描き、ブログにも載せた(2021.11.30)。二度目を描く理由は水彩、油彩で描き分けるという興味と、もう少し光った(金属)面の練習をしてみたかったから(前回は反射を避けたので黒く見える)。金属光沢や構造色(たとえば黄金虫の背中がちょっとした角度で色が大きく変化して見えるアレ)を描くことは多くの人にとって難しく感じる。わたしも同じである。

もう少し文字とその周りをきれいにすれば終わり。油彩だからもう滑らかなタッチの方がリアル感を強められるが、筆遣いが下手になったらしく、うまく描けない。

追体験(ついたいけん)-ルーベンス

クララ:ルーベンス作
「クララ:模写」(制作中)

ルーベンス作「クララ」を再々再々模写をしている。たぶん4回くらいは繰り返しているだろう。「ルーベンス」という、世紀を超えた絵画の天才がその愛娘を描いたせいぜい6号サイズの油彩の、その模写である。脱線するが、父親というのは“娘”に関しては特別の感情を抱くものらしく、「娘」の傑作は数多いわりには、「息子」の傑作はあまり無いようだ(ルーベンスには二人の息子を描いた60号ほどの油彩画がある。長男?の顔だけを原寸大で模写したことがある)。多くは「息子本人」による自画像で、男子の場合は「自助」努力なしでは達成できないようである。母による「息子」の肖像はどうなのか、そんな研究があるかも含めて興味深いテーマではある。

本題に戻る―わたしの「模写」はルーベンスの完成作に比べると「格下の娘」だ。でも、描いているうちに、実際のクララはこんなふうな“おてんば娘”じゃなかったかなーと一瞬想像するのは楽しい。目をつぶれば若きルーベンスが、可愛い娘が少しでもじっとしているよう、なだめたりお話を聞かせたりしながら、描くべきところだけを、可能な限り素早く描いている情景が浮かんでくる。

わたしの記憶によれば、描かれたころのクララはまだ5歳。12歳かそこらでこの世を去る娘に、ルーベンス的直感で「描いておかなくては」と思ったのかも知れない(根拠は何もないが、“芸術家だから”で十分だろう)。

目的が「模写」だから、これからできるだけ上の写真(の作品)を真似て描くつもりである。見えている色の下にはどんな色があるのか。どんなプロセスで描いているのだろうか、それを文献(というほどのものでなくても)などを利用して調べ、どのくらいの力を筆に加え、どのくらいの速さで筆を動かしているのか、そんなことを試行錯誤しながら追体験していく(プロセスが大事で、似ているかどうかはあまり問題ではない)。そっくりに真似るというのは下品とかではなく、絵画の秘密を知るための「(最短の)ひとつの方法」なんです。

チョコブラウニーを描く

チョコブラウニーを描く(水彩)

金曜日の水彩クラスでのモチーフ。久しぶりに実材(実際の絵の具)でのデモンストレーション。教室の開始前に鉛筆デッサンをしておいたものの、クラスの時間内に色を着け終わることはできず、結局深夜まで。日をまたいでやっと描き終えた。

技術と想像力の関係は鶏と卵のようなものらしい。「初めにイメージありき」が論理的には理解しやすいが、「技術がなければ想像することも難しい」とあのパウル・クレーが言うと、「そうなのかー」と現実を突きつけられたような少し苦しい気持にもなる。

上手になるには一定の訓練が要る。それは誰の眼にも判りやすい。だから多くの人は上手(な絵)を賞賛しがちだ(そこしか分からないからという人もいるが)。そうした中で、一種の成功体験が次への励みになる人は多いと思うけれど、皆が皆、そういう流れの中にいるとは限らない。

明快なものは他人にアピールしやすいだけでなく、自分自身でもスッキリして気持ちがいい。でも、世の中そんな単純な人間やことがらだけで満ちているわけじゃない。うじうじ、むにゃむにゃが心のどこかにあるのがむしろ普通ではないか。そうした心の状態に耐える、それがすでに力になっているのではないか。かつて数学者の森敦氏が「すぐ答えの出るようなものはダメだ。何日も考えても答えが出ない。『考え続ける力』が数学には必要なんだ」と言っていたのをふと思い出した。