「線」の愉しみ

百合のコンポジション ペン・水彩など

そろそろ「ペンスケッチ」も飽きた、という人もいらっしゃるでしょうね。YouTubeでは、10秒以上同じ画像(静止画像)が続くと、視聴者は(飽きて)チャンネルを替えるという話を聞きます。本当かどうかは分かりませんが、実際それに近いのではないかと思います。「刹那的(せつなてき)」という語がありますが、それよりもっと短時間という感じです。

当たり前ですが、10秒ほどで絵を描けるひとは(たぶん)いません。一本の線を引く。次の線は、ペンの進む方向と、さっき描いた線との両方を同時に見ながら描いていきます。1000本目の線を引くときも、やっぱり最初の一本目から、その前の999本目の線までを同時に見ているものです。
 もちろん線を描く行為は動きの中に在るので、静止画像を見ているのとは違いますが、10秒しか我慢?できない人には、ペンスケッチに限らず、絵を見ることはできないような気がします。

(特にスケッチにおいては)わたしはそれを描いたのが誰であっても、一本の線をじっと見ることが習慣になっています。「じっと見る」は実際には1/1000秒であっても、「じっと」です。その「じっと」の間に「追体験」しているのです。まあ、1/1000秒は多少誇張かもしれませんが、どんなにゆっくりでも1秒なんてかかりません。
 スケッチする人の眼というのはそういう風に訓練されているのですが、それ以外の人はきっと嘘だと思っているでしょうね。でも、音楽などでも同じようなことがきっとあるでしょう。

「追体験」って抽象的な言葉ですが、現実では線のスピード、筆圧だけでなく、ここで立ち止まって考えた、ここは自信を持って描いた、ここは迷いながら描いたんだな、と味わっているって意味何です。料理で言えば、ただオイシイ、美味しいというだけでなく、「ここにこんな素材をこんな風に使っているのか、凄いなあ!」とか「この隠し味は何を使っているんだろう?」という風に、ね。
 一本の線を10秒でなく、10分間(じっと)見ててごらんなさいな。今まで見えなかったものが見えてきますから。絵を見る、ってそういう発見があるんですよ。

とりあえずスケッチ

「ガーベラと百合」 ペン、水彩

今日は久しぶりの雨。そのせいか首が痛い。だいぶ前に頸椎ヘルニアになったことがあるが、それ以来の苦しい感じ。その際、病院では「この程度なら放っとけば治る」ということで、実際その通りになったが、意識しなくなるまでに3ヵ月くらいかかったような気がする。またそんなにかかるのか、という気分だけでもウンザリ。なにかヘルニアになるような特別なことをした覚えはないのだけど・・。

ペンスケッチを続ける。そのうち、何かがひょこっとこぼれ落ちてこないとも限らないから、手が動くならスケッチする。

朝のスケッチ

           コピックによるスケッチ  PM紙を使用
            「蕾が開いてきた」―ガーベラはダウン

目が覚めたら、昨日までに開きかかっていた蕾がすっかり開いていた。水を替えたり、触っているうちに、今まで咲いていたひとひらがポトンと床に落ちた。このストーリーを絵に描けないだろうか。試し描き程度に数度使っただけで、以後ほとんどしまいっぱなしだった「PM紙」をケースの中から再発見、使ってみた。

「絵にストーリーを持ち込むのはよくない」と言われたものだった。わたしの絵はそういう傾向が強かったのも今では分かるし(今もそうらしい)、それがなぜいけないと言われたのかも解ってきたつもり。そのうえで、再びストーリーを持ち込みたい、と考え始めた。

なぜかって?たとえば人は文章を読むのではなく、文章の「すき間を読む」のが普通だから。「美味しいカレー」はまだ素材の領域だが、「この人の作るカレーはなぜこんなに美味しいのか」は芸術の領域だと思うから。