空中浮揚の夢

        「青柿」  水彩+アクリル

ちょっと変わった夢をみた。どこかの山奥の村。わたしの故郷とは全く違うが、なんとなく既視感があり、どうやらそれなりの期間、ここに住んでいたっぽい雰囲気。身内の人が住んでいるくらいだから。その、親戚らしいわたしより2つか3つ年上のおばさんがかつて習った、という先生がここに住んでいる、となぜかわたしをその人の住宅に案内した。

留守だったので帰ろうとするところに、その先生が帰ってきた。見るとまるで女子中学生か高校生という感じ。計算上、どんなに少なくとも80歳は絶対越えていなくてはならないはずなのにシワひとつなく、マシュマロのように真っ白で滑らかな肌に、アーモンド型の大きなはっきりした眼。鼻はクッキリ小さく、ピノキオのように少しとんがっている。

その異常な若さを疑問に思いながら誘われて中へ。玄関を入ったところにちょっとしたスペースがあり、上を見ると円錐の底から見上げたような穴が開いている。ドーム天井というほど優雅なものではない。何の穴だろう、ますます不思議な気持で居間に移る。なぜかわたしの記憶の中の品々がそこかしこに置かれている。「へえ~!」と言ったかどうか忘れたが、近づいて手にとってみようとしたら、何となく体がすっと浮いた気がする。
 足元を見ても別に浮いてはいない。が、もう一歩踏み出すと、今度は床を踏んだ感覚がない。あらためて足元を見ると10センチほど浮いている!

二階も見て、というので玄関ホールに戻り、円錐状の穴の下へ行く。すると先生の身体がすうっと吸い込まれるようにその穴に吸い上げられていく。わたしもおばさんも続く。
―(中略)―「先生はどうしてそんなに若いんですか?」と溜まった息を吐きだすように疑問を口にするわたし。「この家は不思議な家で、ところどころ無重力のところがあるの。」「身体に重力という圧がかからないから、顔も身体も垂れ下がってこないのよ」「だからかも」と微笑む。―(後略)―
 

         「青柿」 水彩、ウォーターフォード紙(荒目)

絵のモチーフとして玄関に置いてある青柿もだんだん黄色になってきた。しばらく雨模様の日が続き、そのせいか気温もグッと下がった。昨日、今日は晴れたが太陽にももう夏のようなエネルギーは無く、秋らしい爽やかさが一年ぶりに戻ってきた。

この青柿を頂く前に、すでに赤い柿をたわわに吊り下げている木がいくつもあった。たぶん柿の種類が違うのだろう。甘い実は西欧でも人気があり、特にスペインでは生産も盛んで、中国に次いで世界2位の生産量だという。
 ウィキペディアを見ると北海道南部から九州までのほぼ日本全域に育つとある。松尾芭蕉に「里古りて柿の木持たぬ家もなし」という句があり、そのまま読むとウィキペディアの記述と一致するかのようだが、かつては福島県以北では柿はほぼ生育できなかったと記憶する。東北を旅した「奥の細道」の作者には生産限界が見えなかったのかもしれない。

柿は「カキッとしてなくちゃ柿ではない」という人が結構いる。硬めのカキカキ、シャリシャリの食感が命、ということだろう。わたしなどは北国育ちだから、木に生っている柿の実物を見たことがなかった。流通の悪い当時では、そんなカキッとしたものは手に入るはずもない。内側が甘くトロトロになりかけたやつしか食べたことがなく、それが柿というものだと思っていた。今でも、どちらかというとカキッよりはトロッの方が好きである。

スケッチは水彩だけでなく、アクリル絵の具を下地として少し使っている。水彩だけにこだわらず、効果があれば何でも使えばいい。今見えている効果を、水彩だけでやろうとすると案外大変なんじゃないかな。

二紀展、独立展を観て

昨日(10月20日)、乃木坂の国立新美術館で二紀展と独立展を観てきました。旧知の作家が二人も黒リボンつきで展示されていたのが悲しく、寂しい。

展覧会は団体展であれ、個展であれ、一種の体力勝負の場でもあります。集中力、研究心さえ体力がなければ続きませんから、体力も “実力” の一部であることは間違いありません。体力がないと展覧会を観に行く事さえできません。地方に住んでいる人はそれに加えて財力もないと、東京の展覧会に出品はもちろん、観に行くことさえかなりの負担です。
 団体展の会場では図録も売っているし、ある程度の団体ではホームページなどで会場作品を公開したりしていますが、絵を描く人は、実物作品を自分の目で見る必要が絶対にあります。一本の黒い線がどんな材料で描かれているのか、どんな下地にどのくらいの速さで引かれているのか等々、図録などではまったく分からないのです。

でも、それはそういうところに出品する人たちの話。一般の人は、むしろ大づかみに色やアイデアを楽しんで欲しいし、描く場合でもそんなふうにのびのび描いて欲しいものです。もともと絵は他人と競争するようなものではないでしょうから。

楽しく、のびのびと子ども心のままに描き、その積み重ねが知らず一つの高みに達する、というのが理想ですが、そんなこと、誰にでもできることではありません。都会の展覧会へ無理しなくても、小さなスケッチブックを持って、あるいは図書館から画集を借りて、絵に親しむ機会を増やすだけでも意味はあるんじゃないでしょうか。
 天才たちの作品や、展覧会の作品は、それぞれの道すじでの道案内のようなものなんです。