「欠けたもの」のある美しさ

よく聞くことだが、(現場での)スケッチが一番良く、習作を重ねるごとに悪くなって、最後の完成作が一番面白くない、という話。半分は事実だろう。時間はスケッチが一番短く、完成作が一番長くかかっているのが普通。時間をかければいいものが出来るとは限らない。

なぜ、限られた時間、空間の中で描かれたスケッチが、よく構想も練られ、必要十分な画材とたっぷりの時間をかけて描かれた作品より魅力があったりするのだろうか。

わたしの感覚では、それは現場での直感的な反応も含め、「未完成の力」ではないか、と思う。「未完成の音楽」というのが魅力的かどうかは分からないが、絵や彫刻ならあり得る。半分しか描かれていない、あるいは部分的にしか塗られていない絵が、えもいわれぬ光を放っているのを、きっと多くの人も経験しているに違いない。彫刻もそう。ミケランジェロの荒削りの「奴隷像」、円空仏、未完成とはちょっと違うが、「両腕の欠けた」ミロのビーナス。「欠けたものがある」こと自体がその源泉である。あるいはその「欠け方」が美しいのだろうか。

反対に「行き過ぎた魅力」もある。たとえば「バロック」。たとえば(盛りを過ぎた)「剥落の美」。「源氏物語」、その現存の絵巻の絵など。バロックでは「節度」が欠け、(現存)源氏物語絵巻では「力・Power」が欠けている。たしか日本民芸運動の主唱者であった柳宗悦(やなぎむねよし)が、「茶碗の欠けた一片が、整った完成作より美しいことがある」と言っていたような気がする。
 

初雪-2

「初雪(那須岳遠望)」  水彩 F6

一昨日と同じモチーフ。今回はあえて定番の「道」を入れてみました。やっぱり構図としては平凡になります。杉林を広葉樹風に変え、そのうえ(特に近景は)色もできるだけ省略するようにしたので、一見、桜の時期に雪が降ったかのように見えるかもしれませんね(桜を描くときには使えそう!)。白い部分は紙の塗り残しです。

いまのところ、YouTubeにアップするための練習を兼ねて水彩制作を続けているので、あまり自分らしくない絵が続いて、ややフラストレーション気味です。これでも写真とは結構変えているのですが、さすがに「やりたい放題」からはかなり遠いですね。とはいえ、描くこと自体は嫌な筈もなく、枚数を重ねてくると、だんだん水彩に慣れてくるというか、技術的にも小さな発見が毎回あるのが楽しみでもあります。

「初雪」を描く

「初雪(那須にて)」
現場写真

昨夜から今朝にかけて関東の山沿いにも初雪があったらしい。いよいよ当地は当地なりの「冬」の到来だ。那須岳(茶臼岳)を撮った写真があったので、初雪をテーマに描いてみました。実際この時も初雪だったように記憶しているが、確信はありません。

下が現場写真。車を路肩に寄せ、運転席から撮ったものだと思っていたら、どうやら誰かに載せてもらい、助手席から通りすがりに撮ったものらしい。たしかに(自分が撮るなら)写真の構図としても中途半端な位置取りだ。あえてこれを何とか絵にしてみることにした。

写真になくても道の想像はつくが、あえて道はぎりぎり入れないことにする。大きな変更は「電柱」の大きさと位置。電柱のサイズを小さくしたぶん、山が大きく感じられるような気がするのですが、どうでしょうか(実際、比率的にも大きくしてあるが)。左に(実際にもあるが)林の一部を追加して、視線が左から外に抜けてしまうのを防ぎます。

空と雪の明暗を逆転。雪の白さを強調しました。これで「初雪」がテーマであることがはっきり伝わると思います。山裾には意識的に赤味の色を加え、「秋の終わり感」を表現しています。ただ、山全体はもう少し軽く描いて、距離感を出した方が良かったかなあ、とも感じます。