水滴を描く

葡萄の水滴(水彩・制作中)

先日マスカットを描いた。単色だから簡単かと思ったのが浅はかだった。確かに「モノは単純に見えるものほど難しい」ことは十分に知っていたはずだったのに、つい甘く見てしまった。このスケッチはその反省を生かしつつ、テーマを「水滴」にした。

単純なものほど難しいというのは、例えばジャガイモを描くのは、蜜柑を描くより難しいし、蜜柑は栗を描くより難しい。ジャガイモとただの泥だんごとを見分けられない人はいまいが、見た瞬間にそれと分かるように描きわけるのは至難の業だ。蜜柑だってただの黄色い丸ではない。海辺のありふれたつぶ貝は、棘のかたちが複雑なサザエなどより、特徴がないぶん、難しいのである。

別に絵だけではない。例えば小説だって、その辺のごくごく平凡な人間を描く方が、偉人伝を書くより難しいともよく聞く。巷の騒音を音楽にするのもそういう意味で難しいことだろうと想像する。

話を戻すが、絵というのは眼で見て分かればいいというものではない。正確に描かれていればいいというものでもない。上手ければいいというものでもない。見る人の心になにか点火するものがいい絵である、とわたしは思う。下描きから完成まで、どの段階が「点火」になるかは作者にもわからない。下描きが一番良くて、描くほどに悪くなる絵も、実はたくさんある。この絵もこの先、どの段階がベストなのか、そして、そこで自分で止められるかどうか。その辺が、実力があるかどうかの境目だな。

栗の習作(ペン・水彩)

古代の日本人にとって、栗は高級食材であった。丹波栗などの有名ブランドは今でも高級食材であるけれど、古代ではすべての栗が貴重品だったらしい。

今だって、山へ普通に行って栗を採って来れる人は全人口の何パーセントいるだろうか。流通経済のおかげで、お金さえあれば寝ていても宅急便で手に入れることはできるが、そういう次元の話をしようというわけではない。

栗はドングリよりはるかに有用な植物だった。栗同様、ドングリにも種類があるが、一番多いのは椎の木のドングリだろう。北東北、北海道を除く日本中の野山ではわりと簡単に見つかる種類である。ドングリの中でも「実」の大きいクヌギ(櫟)は高級な方。けれど、ドングリを食用にするには強いアクを抜く、結構な手間がかかる。
 栗は、それらドングリのいずれよりも大きく、面倒なアク抜きの手間がほとんど要らず栄養価も段違いに高い。しかも木は大木になって、建築用材としてもすこぶる有用である。だから、古代の集落の周りには可能な限り栗の木を植えた、らしい。そういえば、現在の三内丸山遺跡の場所は三年間毎日のように遊んだところだったが、発掘以後は行ってない。わたしにとっては必ず行かなくてはならない場所のひとつ。

ついでだが、マロングラッセという西洋のお菓子がある(しばらく食べてないなあ)。マロン=栗というイメージがあるが、実は “マロン” は栗ではない。マロンはマロニエの実で、マロニエとは「栃の木」である。日本では栃餅、栃蕎麦などに使われるが、栗と同列には扱われない。近代日本の黎明期、パリに集った日本人たちのほとんどは、高級人種ばかりで、日本の野山で在来の栗など採った経験などない、栗の実と栃の実の区別などできない連中ばかりだったのだと想像する。
 栗を見ると、いつもそんなことを思ってしまう。

斎藤兵庫県知事と維新

マスカット(水彩)

斎藤兵庫県知事のパワハラ(パワーハラスメント)を巡って、マスコミも、女子会なども盛り上がっているようだ。そこへ維新が知事に辞表を出すよう申し入れた、との報道があった(NHKなど)。

馬鹿じゃないだろうか、と呆れる。維新にもマスコミにも、だ。パワハラが実際にあったかどうかの判断は担当する機関に委ねるとして、まず確認しておかなくてはならないことは、知事が知事である理由は県民が投票したからである。知事の進退は、投票してくれた県民に対して判断されるべきもので、いかに維新出身の知事であろうと、維新の意向でどうこうすべきものではなかろう。単純に、次に予想される衆議院選挙にマイナスになるという思惑の見え透いた、浅はかで間抜けなポーズである。
 同時に、マスコミの辞任圧力には、こちらこそ社会的パワハラそのものではないか、と思う。報道のあるべき姿だとは到底思えないが、NHKはじめ、自分だけが正義とばかり、世論誘導する姿を往々にして見なければならないことは、本物の報道機関を失ってしまった国民の一人として情けなく、恥ずかしささえ感じる。

維新がやるべきことは、自分たちが応援した知事の不祥事(だと思うならば)に対し、上から目線で辞任要求することではなく、まず投票してくれた県民にお詫びすることでしょう。票を投じてくれた県民の頭ごなしに辞任要求するなんて、県民に対するむしろ侮辱とさえ感じられる。維新なんてこの程度だ、と自ら公言しているようなものではないか。

斎藤知事に希望することは、辞任せず、逃げ回り、出来るだけ多くの膿を出し切ること。自らの膿も、庁内、維新の膿も、マスコミの膿も。言葉は悪いが、これからの政治のための犠牲者になってもらいたいということ。一般人ではできない、特別の人だからこその、汚れ役になってもらうことが、一時の県政より有意義なことかもしれないと、勝手ながら思う。幸い、知事は辞任要求を拒否したらしい。