一日の長さ

パンジー アクリル F10 2011

夏休みという感覚を自分自身では感じなくなっていた。子どもがまだ小学生の頃までは、夏休みとは彼らの宝石箱であり、そこに何か特別の価値あるものを入れてあげなくてはと、普段よりせわしい、少しばかり追いつめられた気持の方が強かったように思い出す。

それが、今年は突然自分自身が夏休みに入ってしまった。休みを取ろうという積極的なものではなく、無理やり採らされたわけでもない。 要するに突然何もする気が無くなってしまい、結果的に夏休みになってしまったのである。

どこかへスケッチの取材に行く気持も起きない。絵もまるっきり進まず、筆を持っても知らないうちに置いている。本を読むわけでも、テレビをみるわけでもない。ただぼんやりと汗をかいては水を飲み、食べては眠くなり、まあゴロゴロしているだけである。7月はあんなに毎晩お酒も飲んだのに、8月になったら目の前にお酒もあるのにまったく飲む気がしない。これはどういうことなのか?自分自身でも意味が分からず戸惑っている。熱があるとか体調が悪いわけでは全然ない。むしろ以前より体は健康的でさえあるようにさえ思う。

今朝は午前中と午後の2回も妻と喧嘩。ご多分にもれず夫婦喧嘩の理由などくだらないに決まっているのだが、2度目は6時間も大声を上げ、喉も疲れるほどイラついた。原因はウォーキング用の通気性の好いショートパンツ。チラシには白、黒、濃紺の3色。白は嫌だが黒か紺なら良いと言ったのだが、買ってきたのは白。あらためて白は好まない、黒か紺が良いというと、せっかく買ってきたから穿けという。それに白も初めは少し気に入っているようだったと無理強いする。白は汗で汚れて見えるし、同じ白でも少し白すぎる。別に買い替えなくてもいいが、それを穿きたくはない(から返品)と言うと、再び同じことを繰り返して無理強いする。何度か双方同じ言葉を繰り返しているうち、白でも黒でも同じではないか!と言い募るので私もとうとう爆発してしまった。馬鹿野郎!絵描きに向かって白でも黒でも同じとは俺を馬鹿にしてるのか!という具合の馬鹿試合。これを延々6時間もやる元気があるのに、絵を描く気力が起きないというのはどういうことなのだろう。今は一日が長くて仕方ない。結局ショートパンツはハサミでずたずたに切り裂いた。

子どもの頃は誰でもそうだろうが、一日が長かった。しかし年齢を重ねるにつれ一日が縮み、ひと月もあっという間、一年でさえ瞬く間に過ぎ去るような感覚だったのに、なぜかこの夏になって、急に一日がおそろしく長くなった。

子どもの頃の一日にはぎっしりとあらゆるものが詰め込まれ、疲れ果てて瞼が落ちるまでの、明日はあれをやろうという、興奮に満ちた長さだった。しかし、昨日、今日の一日の長さはそうではない。自分が何も出来ない、何も出来なくなってしまったことを、水面に映る自分の顔をじっと覗くことで思い知らされているような、薄っぺらく、じりじりするような一日の長さだ。ブログに書くようなこともそろそろ無くなってきた。2011/8/7

 

晨春会展を終えて

歩く男 F6 水彩  2010

前回のブログから10日。会期中に一度書いてはみたが、まとめきれず公開は出来なかった。7月31日晨春会展が無事?終了。大震災があったからなのか、今年はいつもと違う感じが会期中もずっと続いていた。特に目につく変化は無くても、たぶん何かが変わったに違いない。

一つは心の変化。震災は心災でもあった。自分は何をやっているのだ、という情けなさと口惜しさの混じったような気持がずっと続いている。が、それは震災に関わらずもっと以前からだったような気もする。他には自分のやるべきことに選択肢など無いということ。迷っている時間など無いということはよくわかった。よくわかったが、で、今何をと考えると何も無いという絶望的な気分になる。それが会期中ずっと続いていたことの中身だったのだろうか?そうだとしたら、展覧会は自分には何も無いということを確認するだけのために在るようなものではないか。

7月の1ヶ月間毎日お酒を飲んでいた。こんなに毎日飲むのは最近では珍しい。ビール、ワイン、日本酒、焼酎とさまざまなアルコールを、あるときは大量に、あるときはほんの少し、ある時は楽しく、あるときはまるでそれが仇でもあるかのように。そのせいか、1週間ばかりの間、夜になるとふくらはぎから下がパンパンに浮腫んでしまった。指の周りも豚足のように丸々している。指先に力を入れると浮腫みが白く浮かび上がり、血の色が全く無くなった。脚を上げたり、動いたりするようにしたら浮腫まなくはなったが、夜の酒は止めなかった。飲みたいというより飲まなくては、というような気持だった。

8月になったら、急に飲もうという気が薄くなった。展覧会が終わったことと関係があるのかどうか分からない。単に飲み過ぎて飽きてしまっただけなのかもしれないが。晨春会展を終えた時、昨年なら「次作はこうしよう」と思い描いていた。今年は何も考えていない。ただ、目の前にある小さな描きかけを、早く目の前から消してしまいたいと思っているだけ。

 

 

Sさんが亡くなった

少年と犬 F50 テンペラ 1998

Sさんが昨日亡くなった。長い闘病の末だった。元気だった当時のSさんのメインテーマは「犬」。このブログはできるだけ新作を載せながら書くようにしているが、そのようなわけで今回十年以上前の(私のだが)作品を載せることにした。ささやかだが追悼の意を表したい。

Sさんとは大学の公開講座・水彩クラスで初めて知り合った。私とは講師と受講生の関係である。私が講師であったが、教わったのは私の方がはるかに多かったような気がする。彼女の方が年上で人生経験が若干上というだけではなく、それ以上に絵に対する情熱が私よりはるかに凄かったからだ。その情熱は同じクラスのすべての人に留まらず、絵が好きだという人すべてに共感するというような、ある種、凄まじさのようなものが感じられた。当時彼女の影響を受けた人は多い。私もどことなくその情熱に感動し、どこか高揚したような、アドバイスなのか、アジテーションなのか、宣言なのか分からないことを口走っていたような記憶がある。

県展では入選の常連。なぜなら誰にも出来ない技法を編み出していたから、どの審査委員もそのことに一目置いていたからだ。「ああいう絵は絶対に落としてはいけない絵だよな」と、私の受講生とは知らず、私に語った審査員がいる。殆ど毎年賞候補だったが、賞にならないうちに病気になり、出品できなくなった(そのことに私も若干の忸怩たる思いがある。)。

彼女の(今は形見になってしまったが)頑張りを示す、失敗作の断片を頂いてある。その断片を見るだけで、彼女の(努力だろうが、そうは言いたくない)情熱の一片を感じることができる。おそらく、「世界の」水彩史上類例のない技法であることは間違いない。もしも私に、美術界で発言出来る日が来たら、必ず語るべきエピソードであると思っている。

たった一つだけ彼女の小さな勲章がある。埼玉県文展というのがあった(今は無い)。最高賞は労働大臣賞で埼玉県知事賞の上、それを受けたことだ。授賞式前のNHKなど報道機関のインタビューを受けている時、彼女は記念に私と一緒に写真に収まりたいと言った。私は私の指導など無関係に、受賞は彼女一人の努力の結実だと思い、それを汚すまいとして一緒に写真に収まるのを断った。それに、そんな賞など単なる「初めの一歩」に過ぎない、凄いのはこれからだぞ、という指導者としての内心の傲慢さがあった。それが彼女が病気になってから一番の後悔である。私に謙虚な心が無かった辛いエピソードだ。心からご冥福を祈ります。2011/7/21