こども作り大学?

「こども作り大学」の看板を、大学の建築学科棟で見た。一瞬「えっ?」という感じ。少子化でいよいよ建築学科でも受精や妊娠障害の研究でも始めるのか?目をこすってよく読めば「こどももの作り大学」。紛らわしい看板にちょっと驚いたぞ。

これが生涯学習講座の替わりにやりたいことの一つらしい。目的はともかく、方法論や先の展望も無いまま見切り発車して、赤字増産の責任を下へ下へと垂れ流すいつものパターンでスタートするようだ。一種の子供囲い込みを画策している訳だが、そんならいっそ本当に「こども作り大学」からスタートした方が確実かも知れない。

入学時の18歳までの学力の差に比べると、18歳からの可能性の方がはるかに大きいと思う。しかし日本では18歳の学力差で、ある意味では一生取り返せない差に分けられてしまう。会社も一度辞めるとすぐに社会の底辺に落ちてしまい、滅多なことではそこから這いあがれない日本社会。「諦めずに何度もチャレンジ」と学校でも社会でも掛け声だけは大きいが、本気になってそれを可能にするシステム・政策を作ろうなどとはしていない。切り捨てるだけ。ただ単にコストとしてしか人を見ない。人がどれだけの力を持っているかについて、想像力を失ってしまったかのようだ。

そんなわけで三流大学になると、そのレッテルを嫌って学生が来たがらない。定員を満たせない大学は必死に学生をかき集める。いつのまにか学生一人が「個性」や「可能性」ではなく、「授業料」そのものに見えてきても不思議はない。

学生が授業料にしか見えないような大学なら、さっさと退学し、一冊のスケッチブックを持って世界を見学して回る方がよほど有効な「授業料」になるかもしれない。「こどももの作り大学」で、小学生時分から将来この大学に親しみを持つように刷り込みをするなど、なんて浅はかで馬鹿馬鹿しく、情けない発想だろう。文科省による近年の理科系科目への、こどもの誘導策も同じ次元の発想だ。こどもは大人ほど馬鹿ではないことを知らない国は亡ぶしか道はない。  2011/10/23

 

 

 

 

 

 

 

Modern art American

Astronaut F4 2011

モダンアート・アメリカン展を国立新美術館で観た。ヨーロッパ直輸入の時代から、次第にアメリカの風土性が強くなり、やがてヨーロッパとは違う独自の道を歩み始め、そこに自信を持つに至るプロセスを分かりやすく並べてある。

ジョージア・オキーフという女性画家(写真家アルフレッド・スティーグリッツの妻でもあった)。大画面に蘭などの花の一部分だけを特にクローズアップして、女性性器かと一瞬見紛う表現などで知られている。その写真的な手法など、一流の写真家であるだけでなく、現代美術の隠れた天才ディレクターでもあったスティーグリッツのアイデア、戦略そしてオキーフの感性を見抜く目を抜きにしては語れない(はず)。

そのオキーフの作品が3点ほど出ている。どれもあまり大きくないが、そのうちの20号ばかりの、一枚の枯れ葉を描いた作品に特に魅かれた。前面に一枚の大きな白っぽい葉。その後ろに赤茶けたもう一枚の葉が重なっている。さらにその後ろの葉と、全体で3枚の葉っぱを描いているだけだ。前面の白い葉の一部に、それが枯れ葉である証拠の乾いた亀裂が入っているのが、この絵の核だと思う。背景も白。色彩は主に白と茶色の葉、それに背景の白だけの単純さで、モダンアートの旗手の一人としてはむしろ地味な絵だ。

多分実際にきれいな色の葉っぱだったのだろう。何となく拾い上げて手に乗せて見た。普通ならそのあと捨ててしまうか、描こうとして持ちかえっても結局描かずに捨ててしまう。けれど、そこに長い、一本の亀裂がオキーフの目を捕えた。何かが閃いて、それが絵になった。葉も大事だが、この亀裂が絵の核だというのはそういう意味である。もちろんこれは私の勝手な空想に過ぎないけれど、絵というのは往々にそうやって生まれてくるものだからだ。

エドワード・ホッパーの絵にも魅かれる。男が座っている。何でもない光景だし、その前にもその後にもたくさんの男も女も座っているのを見ていた筈なのに、その時その場所での男がホッパーに突然の閃きをもたらしたのだ。その男をあえてモデルに雇ったとしても、描く気持になったかどうか(制作にあたってモデルを使ったかどうかは関係無い)。

クリフォード・スティル。これら世代は異なるが、アメリカの絵画はモダン、時代の最先端というイメージが強く、日本人が真似るとことさら新奇、激しさ、けばけばしさなどを強調するが、実際に見ると案外に地味なのである。その発想も自分自身に発していて、むしろ謙虚で素朴という、モダンアートのイメージと矛盾した言葉さえ浮かぶ。日本人はアメリカ絵画の本質をどこかで見誤っているのではないだろうか。絵画の本質は、レオナルドの時代でも、現代でも変わっていないような気がする。日本でもアメリカでも。そういう大事なことを、教えてくれる展覧会かも知れない。 2011/10/16

 

長期戦を楽しめるかも知れない

カラスウリ F4 水彩 2011

2ヵ月ぶりに父の入院している病院へ、3日間だけ行ってきた。

最初の印象は「父によく似た別人」。2ヵ月前は頭に包帯を巻き、目も腫れぼったく、ほとんど何を言ってるのか判らなかったが、それでも「病気の父」だった。今度は包帯も腫れぼったい眼も無かったが、目の前にいるのは父ではなく、抜け殻のような、人間というよりどこか猿のような、別人だ。私の顔にもほとんど興味は無さそうに目をそらした。

2日目。父の昼食を手伝う。手も腕も上手く使えない父は、昼食に1時間から1時間半もかかる。それも介助してもらって。一人で食べるのはほぼ不可能。口に入れてもらっても、呑み込むことさえ簡単ではない。話しかけ、励まし、落としそうになるまで一人で食器を持たせ、スプーンを持たせ、出来る限り自力でやらせる。やがてだんだん意欲的になり、口まで運べなくても食器を取り替えて持とうとし、中身をきちんと真ん中に寄せようとし、食べたくないものを食器から掻きだそうとし始めた。

声もほとんど出なくなっているが、一生懸命、たくさんの言葉を使って話し始めた。口元にピッタリ耳をつけるようにしないと聞き取れない小さな声だが、そのうち意味のある語をいくつか繋ぐようになり、相槌を打つとますます話すようになった。やっと猿から人間の世界に戻ってきてくれたように感じる。真面目で努力家タイプの、父の性格が感じられ始めた。

大好きな新聞を渡すと、読もうとする。まだ字を読めるかどうか判断できない状態だが、目はいかにも次々と記事を追っていく流れだ。時々新聞を持ちなおす仕種はさすが堂に入ったものだ。何とかなるかもしれないと、この瞬間から希望を持ち始めた。記事の内容を耳元で怒鳴るように伝えると(耳も遠くなってしまったらしい)、判っているとうなづく(しかし大半は分かっていない感じがする)。それでも機械的にうなづいているのではなく、脳内のどこかで反響した結果としてうなづいているのは確かだ。分からないのは、分からないと小さくつぶやくのだから。

脳の病気は長期戦覚悟だ。そのうえ高齢であればなおさら。体力は更に無い。にも拘わらず、きっと父は私たちの中に戻ってきてくれると確信できた。3日目の昼はいかにも食べたくなさそうだったから、「美味くないか?」と聞いたら、即座に「不味い!」と吐き捨てるように返事した。よくは聞き取れないが、「歯ごたえも、口当たりも良くない」と訴えていると理解出来た。すべてゼリー状の食べ物が、一級品の海産物を日常的に食べて来た父に美味いはずはない。私は笑った。それは昨日のことだ。  2011/10/11