
とうとう12月。しばらく制作途中の絵から離れていた。1週間も遠ざかると、まるで絵の神経が切れてしまったかのように感じる。描きかけの絵を一日中呆然と眺めるばかりで、線一本さえ加筆することができない。
やがて感覚が少しずつ戻りはじめ、翌日くらいからやっと「自分」が帰ってくる。

とうとう12月。しばらく制作途中の絵から離れていた。1週間も遠ざかると、まるで絵の神経が切れてしまったかのように感じる。描きかけの絵を一日中呆然と眺めるばかりで、線一本さえ加筆することができない。
やがて感覚が少しずつ戻りはじめ、翌日くらいからやっと「自分」が帰ってくる。

絵画の世界では「これが私のスタイルです」を確立するまでが苦労で、いったんスタイル=画風を確立さえすれば「これが私だ!」で自分も、世間もそれで認める、認められることになる、ようだ。作家は皆必死で自分のスタイルを探し求め、模倣し、作っては壊して、独自のスタイルを作りあげ、その努力を世は賞賛する、というストーリーになっている、らしい。
確かに一朝一夕でスタイルは確立しない。画家のあらゆる試み、あらゆる感性や長い間に培われた絵画思想といったものがそこには詰め込まれている。だから、スタイルを確立するということはその氷山の一角をついに水面上に出す、ということであって、やはり賞賛に値するものだ。
けれど一方で、画家のスタイルは(比較していいのか迷うが)会社のロゴみたいなものだと考える人も少なくない。ロゴとはようするにブランドであり、シンボルである。大事なのはそれを生み出した人とその製品の内容であって、ロゴそのものに意味があるわけではない。
ロゴやブランドが尊重されるのは、ビジネスの上でその品質が保証されてきたという実績があるからだ。ブランドを汚すという言葉は、その実績=品質保証を疑わせる製品を世に出すという意味だ。つまり、ブランドと中身は常に一致していなければならないということ。それは、同じレベルのものを作り続けるというだけでなく、一方で常に進化・深化し続けることでもある。社会環境の方が変化するからである。
だから、「これが私のスタイルです」と画家がいう時(そんなことを言うはずもないが)、それは外側から見た「画風」の意味だけであるはずはない。「私のスタイル」とは、常に変化し、かつ動じず、ということだろう。そしてそれはたぶん、一般の人が「スタイル」という言葉に持つイメージとは随分違った中身になるに違いない。

今朝はぐっと冷えた、らしい。ぬくぬくと布団の中にいて、ラジオで天気予報を聴いていただけで、寒さを知らず。
昨日は数人の個展を中心に都内を廻ってきた。銀座のように画廊が固まっているところではなく、開催場所がバラバラだったので、件数の割にはだいぶ時間がかかった。特に乗り換え駅の構造の分かりにくさに閉口した。
一説には、核戦争時のシェルターになるよう、ホームを深く作るようになったとも言われているが、確かに深い。そのうえ都内地下鉄では、駅どうしをくっつけて繋ぐ傾向がある。案内板も少ない。仕事柄、その類の図には慣れているはずだが、それをじっと見ても頭の中でコースを描きにくい。なまじ図を見たためにかえって迷子になる人もいるに違いない。プロジェクト・マッピングの技術など、こういうところに使えるようになって欲しいものだ。
2つ3つの駅構内を、乗り換え線ホームを探して歩くだけで汗だく、疲れとタイムロスとで、結局最後まで廻りきれずに帰宅することになった。