ああ、九月

「Apple-3colors」(未完) 2020

「ああ五月」「ああ、皐月」とかいう詩や歌をどこかで目にした覚えがあるが、それは五月(皐月)の時候の美しさや、それに重なる快活な情感への賛歌だと記憶している。

「ああ、九月」は「ああ、もう九月になってしまった(しかももう半ば近い)」(それなのに、何にもしていない)という、自責の「ああ」だ。ああ。コロナのせい、暑さのせい、隣家の犬がうるさいせいだ。

やらなくてはならないことを一寸先に伸ばすごとに、心が1ミリずつ縮んでくるような気がする。寿命のローソクが確実に短くなるというのに、また隣家の犬が吠える。いったい、なんだってあの犬はあんなに吠えるのか、隣家の人々は全員耳が遠いのだろうか、それとも耳栓をしながら私に向かって吠えさせてでもいるのだろうか。それに、なんだって九月だというのに、こうクソ暑いのか。私の家に、誰かが嫌がらせにこっそり熱風を送り込んででもいるのだろうか。

私だけが「ナマケモノ」ではないはずだ、たぶん。きっと同類はいるはずだ。隣家の犬や猫やふくろうやミミズの声に悩まされて、なーんにもできない人もいるはずだ。が、そういう人は私には見えない。我が家では、全員が死体のようにゴロゴロ床に転がっているというのに、窓から見える人たちはこの暑さの中を、普段と変わらない速さでさっさと歩き、常に何らかのお仕事をしているように見える。しかも涼しげ。何か、特別な飲み物でもあり、それを私が知らないだけなのだろうか。ああ、苦月。十月は目の前。心がぐんぐん縮む。なのに、私の身体はなぜか仕事に向かうことを拒否している。

自分に還る時間?

「 Apple-Yellow」 2020

しばらく制作を休むと、頭も体もついていかなくなり、特に制作途中の作品に気持がつながるまでには、かなりの時間がかかる。だから、たとえ制作時間が短くても毎日描くのがよい、と昔はよく言われたものだ。今もそう言う人がいるのだろうか。

8月も後半に入って、やっと制作への神経回路が繋がり始めてきたのを感じる。ほぼ丸々1ヶ月かかった。この1ヶ月はまるで自分の頭の一部をどこかに置き忘れ、他人の手を借りて描いているような感じだった。そして寝る前にいつも同じことを呟く。「いったい自分は何をやっているんだろう」。

本当は絵なんか描いている場合じゃない、のかも知れない。ただ、描かないことには、自分のいる場所が無い、そんな気分になって落ち着かない。とりあえず、自分を落ち着かせ、何かを考え、何かができるようにするためにも、(私にとっては)絵を描く時間が必要だ。

AIが絵を描き、それをAIが観賞し、その流れの最下流で人間がその「絵」を見るようになるだろうか。その時、「絵を描く時間」はどんな意味を持つだろうか。

暑い夏

「 Apple 」20 Aug ’20

やはり埼玉の夏は暑い。例年、8月は涼しい下北半島で過ごしていたので、久しぶりに埼玉の夏を味わっている。下北半島とは10度〜15度くらい違うので、1ヶ月くらい籠もって集中して何かやるのにはもってこいの気候だ(ちなみに今日8月21日、埼玉県鳩山町では39.4°だったが、下北では23°)。

最初のうちは疲れるほど暑く感じたが、半月もすれば慣れてくる。それでも「危険なほどの暑さ」の日は、窓や雨戸に当たる日差しが厳しい。家の前を腰の曲がったおじいさん、お婆さんが買い物車を押しながら何人か通る。「何もこんな暑い時刻にいかなくたって」と思うが、朝早くは店が開いてないし、夕方は混みあう。目も悪くなっているから昼間の方が安心なのだろうと想像して、痛々しい気がする。

慣れてくると何度まで、クーラーなしで普通に仕事できるかなどと、無意味な興味が湧いたりする。そんなのに我慢する暇があるなら、仕事なり、勉強なりした方が得なのは確か。そんなことを考えるほど、頭がボーッとしてくる。