おおたかの森-森の美術館

西房浩二作品の一部
展示室から左にカフェテリア。その向こうに入口がある
森の美術館ファサード

招待券を頂いていた「西房浩二展(後期)」を観に、千葉県流山市おおたかの森にある「森の美術館」に行ってきた。西房さんのもう一つの個展のことはすでに紹介した(2025.10.03の記事)が、こちらには彼のごく初期の作品もあるというので、興味もあった。会期は2025年12月21日まで。

今日も朝から快晴。昨日あたりから腰の調子もよく、徒歩で駅から20分ちょっととあったので、ウォーキングを兼ねるつもりで出かけた。20年以上前に「おおたかの森保存活動」のメンバーに誘われ、「おおたかの森」には一度だけ来たことがある。それ以後周辺はどんどん開発され、大きな建物のならぶ “近代都市” になっていた。美術館への曲がり角の目印になっているバス停留所が移動されたらしく、だいぶ行き過ぎてしまった(ウォーキングとしてはよい)。

初めて訪れたギャラリーは、今年で10年目に入ったということで壁面もまだきれいだった。森のほとり(隣接するのは「大畔(おおぐろ)の森」という、ちょっと混乱を招きそうな名称の森)の、こじんまりしているが、なかなか素敵な空間である。環境が良いので深呼吸した気分で絵を見ることができる。入館料は600円だが、コーヒーと小さなお茶菓子付きなので、かなりお得だと思う。

西房さんの作品は気持ちのいい写実絵画である。能登の出身で、現在も能登に住んで精力的に制作を続けている。これからも益々活躍する作家だと思う。

共感

             「椿の実とタイサンボクの芯」  フェルトペン

「共感」、「共有」という感覚が、生活する上でのキーワードだろう、と思う。「一体感」とか「協調」という語も、日本人は好きだ。

裏返せば、「共感できない」「協調しない」こと・人に対しては、そう言う考えもある、などとは考えず、基本的に異分子として「排除する」傾向が強いということにもなる。まあ、これは日本人に限ったことではなさそう、というか世界中でその傾向が強まっているようだが。

「空気を読む」という言葉が流行ったが、造語としては鋭い語感覚だな、と思う。聞けばなるほどと思うけれど、なかなかそういう発想はできないだろう。絵画や彫刻などの美術も実は、そのかたちや色から漂ってくる「空気」を読んでいる、ともいえる。違うのは、「空気」がその場やその時を越えて流れてくることだ。

共感や共有、協調などという意識は、アーティストにとって、ときには邪魔者である。けれど、共感なしに芸術は存在しない。誰かが共感して、その作品を遺してくれないことには作品として存在しないと同然だ。データとして残れば、という人もいるが、それもいつかどこかで、誰かが共感してくれる、という「信仰」に近いものをもっているからだ。そしてそれはたぶん間違っていない。

秋深む

      「山荘の秋」 水彩

秋も深まった。もう十二月だからすでに「冬」なのだが、外へ出ればまだ黄葉が残り、ウォーキングすれば汗ばむくらいの(関東南部の)気候では、冬というよりは「秋深む」のほうが感覚的に近い。

世の中のスピードは早い。早すぎるほどだ。そして、あらゆることについていけないという危機感ばかり募ってくる。それは現代だからではなく、植物を含むあらゆる生き物が、古代からずっとそうしてきた、と学者たちは言う。どの時代でも、子は親より新しいことを身につけ、親世代は遅ればせながら必死についていこうとしたものだ、とも言う。

世の中がどんなに早く進んでも、夏が春を追い越すことはなく、冬が秋より先に来ることはない。人間の体内を廻る血液の早さが、世の中のスピードに合わせて変わるわけではない。とこれまで思ってきた。いや、本当は微妙に脳への血液循環が遅くなるのかも知れん。「加齢」という、本当はなにも説明していない隠れた流行語の陰に、その症状が現れているのかもしれない。

ものを見るのには時間が要る。一個の柿を見るとき、人の心の中には数万通りのアイデアがあるだろう。美味しいか、そうでないか。値段は?どこで買ったのか。近所の家の柿とどう違うのだろう、柿もやっぱり生き物だ、いまが旬だな、○○さんにあげようかなetc…。チラッと見る、じっくり見る、そこからなにかを感じるまでの時間が要る。などとヒマごと言ってるからついていけなくなるんだぞ、と空気から伝わってくる。