幸福な時間を過ごしましょうよ

「クロワッサン」を教室で制作中(水彩:なぜか食べ物を描くのは精神的にもいい感じ)

さまざまな事情で絵から離れた人から時々ハガキなどを頂く。それらのなかには「あの時間は最も幸せな時間でした」と書いてあることが少なくない。多少の美辞麗句はあるとしても、正直な心情も込められていると感じる。

一枚の絵を描くのには大小さまざまな山や川を越えなくてはならない。それらの幾多のハードルの中でいちばん大きな山が「時間」だろう。「お金」という人もいるだろうが、それはたぶんお金を稼ぐために絵を描いている時間がない、ということだと解釈している。コストという意味では、絵は最もお金のかからない精神的な遊びのひとつだ。実際に、鉛筆一本で自分の世界観を表現することは誰にでも可能だから。原始時代の洞窟壁画には鉛筆すらなかった。

家族の成長とか老化など、いろんな条件を勘案して、「自由に伸びのび(気楽に)」絵が描ける(絵に限らないが)時間を試算してみたことがある。同じことを考える人は少なくないらしく、それらの意見を総合するとだいたい3~10年くらいになりそうだ。日本人の平均寿命が男女とも80歳を超えて久しいのに、この短さは何を表しているのだろうか。―わたしの周囲の人々の多くは皆さん軽く10年以上描き続けている。ということは、単に“ラッキーな人生”ということではなく、むしろ相当な犠牲を払ってでもそれを続けているということになるのだろうか。

ある女性美術家がわたしに言った。「絵を描いている人はみんな愛しく思える、可愛いと感じる。」自分が愛する「絵」を、ずっと愛し続けている人はみなかけがえのない仲間だ、そんな気持ちの表現だろうと思う。彼女ほどの心境にはわたしまだ達していないが、犠牲を払うほど絵は純化していくような気がする。シーンと集中して筆を動かしている人を見ていると、幸福というのは外から見えるようなものではなく、そういう一瞬一瞬にあるものかな、などとも思う。

ブラックペパー江戸弁―大脱線

ブラックペパー(油彩)

「2022の新しい旅」といいつつ、やっていることはとりあえず 2021年の後始末。こんなものを仕上げたからってどうということはないのに、片づけないと昨日の靴下を今日も穿く感じでなんとなく気持ち悪いのだ。そのうえそれを見せるなんて、靴下どころか洗濯前のパンツを見せるようでもっとおぞましいのだが、今日の制作はそれしかなかったという自分への「戒め」だったりする(オレはもしかするとマゾヒストだったのか?)。

“マゾヒスト”ついでに言うと、それに近い感覚はすでにほとんどの日本人に体質化しているのではないか?と常々思っている。考えてごらんよ、たとえば「忖度(そんたく)」。だいぶ前に話題になったルース・ベネディクトの「菊と刀」、数年前に流行語になった「空気を読む」なんて考えてみると、江戸時代どころか飛鳥時代頃まで遡れる、同じ精神構造なんじゃない?いわば日本人のDNA。これは簡単には変わらないぜ。

脱線し過ぎだ。  ―要するにCGでやったことを油彩でもやってみたってえだけのことじゃねえか。でもよう、油絵具という「実材」を使うと、たとえば関節の病気があればそれがはっきりと絵に現れっちまう。CGにだってそれはあるはずだが、それを見抜くようなCG眼を望むってのはけっこう難しいんじゃねえかな。―要するに、コンピューターで描くのと、油絵具で描くのは同じじゃねえかもって言いてえだけなんだが。

「そんなこと当然だろ?」―ほんとに「当然」って解る?今のコンピューターを馬鹿にしてはいけないよ―また、脱線だ。えーーっと、「本線」ってどこだっけ?

明けましておめでとうございます。

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

今年は何から始めましたか?2022年ももう3日目。光陰矢の如し、です。昔の人は偉いですね、時間の速さを矢に喩えるなんてすごい想像力だと今も感動します。わたしはとりあえず元日には恒例の「描き初め」をして、「光陰」に「○○印」の傷をつけておきました。

アインシュタインの相対性理論によれば、時間を遡る、つまり「過去に帰る」ことは理論的には可能ですが、タイムマシンが現実に可能かどうかには彼自身は言及していません。

タイムマシンが製造不能なことは明らかになっていますが、その響きは今も心のどこかを打ちます。過去を振り返りがちな年齢になってしまいましたが、タイムマシンなら未来にも行けるはずです。今年は心の中のタイムマシンに乗って10年後まで行ってみたいと思っています。