よく判らないこと

クロアゲハ  近隣西公園にて  20110

 今日は雨の中を、北浦和の近代美術館で開催中の埼玉県展を見に行ってきた。久しぶりの顔を何人か見られたのが、絵を見るより嬉しかった。絵を描く人に会うと、皆仲間のような気持ちになる。今日お会いした皆さん、元気でまたどこかでお会いしましょう。

最近中央で活躍中の作家が県展に出品する例が目立つようになってきた。それ自体は歓迎する事柄だが、ごく普通の一般出品者から「レベルが高くなりすぎると私達の勉強の場が無くなる」との声も聞く。どちらがいいのか、あるいはどの方向を向くべきなのか、県展もそろそろ考える時期なのかも知れないな。

帰宅すると菅総理大臣の不信任案否決のニュースで持ち切り。それも大差で否決とは、あの騒ぎは何だったのかよく判らない。直前の鳩山氏との会談も内容も、その後の食い違い騒ぎも何なのかよく判らない。要するに、どんな理由をつけようと、政治家にとって震災も原発事故も単なる政争の具に過ぎないってことだけはよく判った。

去年の今頃、散歩中に巨大なクロアゲハを見て、思わず写真に撮ったのが上の写真。さすがに両の掌を開いたほどとは言えないが、向こうから大きなハンカチが風に舞って来たのかと一瞬思ったくらいのサイズではあった。何故かちょっと感動。大きいからなのか、よくは判らないが、これも一種の自然の恵みだと感じたのかな。

本当は自分のことが一番よく判らない、とつくづく思う。最近特に。人のことがよく判らないなんて、だから当然と言えば当然なのかも。判っていると思っていることが、本当は全然判っていないと気づくのは恐ろしい。だからわかったと思いたくなってしまう。わかることはいいことだと、単純に思いこんでいること自体、わかっていない証拠なのかもしれないな。  2011/6/2

5月の梅雨入りと台風

アンスリウムなど  F6 watercolor 2011

5月の梅雨入りは案外珍しいのだそうだ。大抵は6月8日前後というから、1週間は早いということか。でも、ここ数年の記憶では、「・・・日にさかのぼって梅雨入りと宣言しました」という発表が多く、「さかのぼってって言われてもなあ」、という思いがある。

今年は桜を見なかった(灯りのない夜桜を一瞬だけ見た)。見る気にもならなかった。弘前(青森県)在住の版画家から「今年の桜は見る人が少なく、寂しかった」とお便りを頂いて、そういえば弘前の桜も、もう40年も見ていない、と思い当った。大好きな白モクレンも見るとも見ないうちに終わってしまった。そこに5月の、最大勢力925hpaの台風2号がやってきた。

子どもの頃も風が大好きだった。停電し、ろうそくを灯す台風の夜、外でごうごうと鳴る風の音がなぜか体に沁み込むように私をわくわくさせた。今も強風に木が揺れる様を見ると、その風を浴びに外へ飛び出したい衝動に駆られる。髪を揺さぶり、口や鼻に強引に入り込む風。目を細め、バタバタと音立てながら前のめりに風にぶち当たる喜びがあった。

埼玉は日本でも最も自然災害の少ないところだと、今度の震災でつくづく有難く感じた。最近は台風もめったに来ない。来ても殆どヨレヨレで、台風という名がかわいそうなやつばかり。不謹慎だが、沖縄や枕崎あたりの凛とした台風状況をテレビで見ると、思わず「台風頑張れ、ここまで元気で来い!」などと応援してしまう。

自然は友。一言でいえばそういうことか。震災は厳しすぎるが、大きな目で見れば、それが私達を育ててきたのかもしれない。幼い胸に響いた風の音は、体に宿る自然が外の自然と呼応する野性の共鳴だったのだな、と今になって解ってきた。  2011/5/30

爽やかな人、爽やかな絵

アンスリウムなど f6 watercolor 2011

 埼玉県展の審査結果が出品者の手元に届き始め、結果に一喜一憂する人もいると思う。

ユニークな絵を描く人がいる。「今年も落ちちゃいましたー。また、来年頑張りまーす」と笑っている。しかし決して来年の入選を目指して頑張るとも思えない。要するに、絵はその人の人生のほんのわずかな部分に過ぎず、血眼になってまでやるほどのことではないのだろう。が、決していい加減に描くわけではなく、それなりに真剣らしい。彼にとって絵は、大切な人生の一部分であることも間違いない。

その人の絵は実を言うと少し困った絵なのだが、その困り方が痛快で気持ちいい。一言でいえばスケールが大きすぎて「きわめて絵にしづらい」。大きいといっても対象は実に具体的で、目に見えるものなのだが、リアルに描くと全然つまらない。半分抽象化するともっとつまらない。絵では無理なのかも?とも思うが、チャレンジし続けている。けれど私のように直線的ではなく、その無理さ加減を楽しんでいるようにも見える。

けっして上手い人ではない(しかし最近だいぶ腕を上げてきた)が、どんな絵を描いても楽しい気分がとてもよく伝わってくる。それが実に爽快だ。彼のような絵との距離感は私には経験がない。こんな楽しみ方ってあるんだなあ、と羨ましくも見える。

気持ちが伝わるくらいだから、実力は十分ありそうだ。だが「困った絵」を絵にすることは未だに出来ず、したがって?結果も出ない。それが楽しそうでもあるし、さらに絵を描く原動力でもあるに違いない。困った絵は、まだ数年は爽やかに彼と私を悩ませてくれるだろう。

上の水彩画は、内容とは何の関係もありません。単なる気分です。