西原(さいばら)理恵子を読む

西原理恵子さんといえば、ちょっと悪どい顔つきのオバちゃんが、デカイ口を開いて辛辣なセリフ?を吐く漫画を描いて人気(彼女のこれまでの凄まじい人生が映画化されるほど)のマルチ漫画家だ。

今年、「女の子が生きていくときに、覚えていてほしいこと」と娘への餞別?の本を書いて評判になったので、それも含めて数冊まとめて読んでみた。

まあまあ、なるほど、なるほどですが、実際やるとなると大変なことですが、実際やったんですね。凄い。そこから自分の事を考えてみると「全て手遅れ」。絶望しそうだが、それでも人に恵まれてここまで生きてこれた。感謝だなあと、改めて思う。でも、あと10年もっと好きなように生きて、その時点で静かに死んでもいくってのもカッコいいかな〜と思う。その10年をどうやって深く、濃くするか、何だか自分の人生をどうブレンドするかという、ソムリエになったような気がしてきた。

 

国会は小中学生を見習うべし

国会の閉会中審査をラジオで聴いていた。感じるのは、不毛な言葉のゲームだということ。マスコミも、どちらが正当かという報道の仕方だが、そんな勝ち負けより、このような問題が起きないようにするにはどうすればいいか、という方法論を求めて両者が知恵を出し合うことを国民は望んでいる。

ばか丁寧な言葉遣い、わざと中身を無くした説明。それらは国民に判断を委ねる、そのためにきちんと事実を示すという、主権者である国民のために仕事をするという本来の仕事に対する真面目な態度ではない。私たちによって選ばれた議員や、議員や行政機構にではなく国民に雇われているはずの公務員までがそういう態度をとって平然としている。それが私たち国民を、世界に向かって二重に辱めている。

小中学生の学級会では、国会のような態度は通用しない。子供たちの意見は常に建設的だ。ずるをしたり、ウソをつくことが恥ずかしいだけでなく、自分のためにさえならないということなど、子どもたちの中では常識中の常識である。

 

「普通の人」には名前がない

エスキース                                       これは失敗(^_^;)

土曜日(2017/7/22)から腰痛が悪化。全然歩けないほどの激しい痛みはないが、今回はこれまでと様子が違う。座っても横になっても痛みが無くならない。これはちょっと警戒を要する。

殆どの人が何らかの各種持病を持ち、殆どの人がそれぞれの個人的ストレスを抱えながら、しかもそれらを半分は諦め、半分は希望を繋ぎながら生活している。膝の痛みを10人に分けて1/10ずつにすることは出来ず、隣家の子どもの受験失敗のストレスを町内で分担することも出来ない。同期の昇進を喜びつつ、妻の愚痴を思い浮かべる人もいるかも知れない。人と人の間で、まったく同じ状況など一つもなく、一人の中でさえ次の瞬間のことは分からない。

けれど、「今日だった」日が昨日という言葉に置き換わり、想像もしていなかった「次の瞬間」が、何の違和感もなく「今日」という名前になっている「不思議」。「普通の人」が普通に歩いていて、その普通の人と自分とをいつも比較しながら、自分も並んで歩いている、普通と少しずれている「自分」。すれ違う人、隣の席の見知らぬ人は皆「普通の人」。「隣の人」には名前がない。