虫の目、鳥の目

Island ・浮かぶ男

「虫の目」とは人が見逃してしまいそうな、あるいは無視してしまいそうな、一見雑多な現象に見える事柄の中に、普遍的な価値や真実を探究する目や姿勢のこと。「鳥の目」とは高い、広いところから、小さな目先の木や、水溜りに捉われず、遠くの大きな森や広い沼や湖を見つけるように、ものの重要性や緊急性などを比較できる目の喩えである。

一人の人間にとって、どちらも一定程度必要であるにも拘らず、ほとんどの人はどちらか一方に偏りがちであるに違いない。けれども、それで困るかと言えば、案外に困った風にも見えない。それどころか、むしろ一方を非難する場合さえ、決して少なくはなさそうだ。

常識的に考えれば、どちらもほどほどという中間派が最大数になりそうだが、果たしてそれでいいだろうか。「目」という同じ語に騙されて、まっすぐな線の両端のように同じ次元に置いてしまっているが、そもそも比べられるものなのか。ちなみに、数学的に言えば線というものには端がない。いわゆる極端がない以上、どこをとっても中間としか言いようがない。

話を戻す。大雑把に言って、政治家に必要なのはどちらかと言えば鳥の目ではないか。「大所高所の見地から」という言葉は政治家の大好きな言葉の一つだが、昨今は大小、高低さえわかるかどうかも怪しいものだ。そのうえ、多くの人が見えているものにもまた気づかない。こういう、退化した目を持つ動物を何と呼べばいいのだろうか。決してモグラなどと言ってはいけない。それではモグラが可哀想だ。

「剣道五段」を描く

「女流剣士 」     watercolor

モデルをしてくれたN坂さん、ごめんなさい。途中まで保っていた(と私が思う「次の一歩」)が、なくなってしまいました。これでは、眠そうに竹刀を持っているだけ、「棒立ち」ですね。

デッサンの初めでは「一瞬前」の幾らかは、少しは捉えていた、と思う。けれど、最終的にこれではどうしようもない。でも、イメージには焼きついているので、ホットなうちならもう少し何とかなるかもしれません。

同じ動作を繰り返すというお願いをしての、実際に動きのあるスケッチ。メンバーには良い経験になったと思う。

桜満開、花吹雪

アトリエで花見

満開の桜は外だけではない。見よ、この華麗さを。まさに今が盛り。少し床に散っているが、動かすたびに枝が擦れあって無理やり落としてしまったものがほとんど。花はまだしっかり枝について、絢爛豪華。

どこかで、こっそり枝を折ってきたのではないかとのご心配無用。教室のSさん宅の桜の太い枝が折れ、一部が繋がったまま満開を迎えたのが勿体ないと、そこからさらに2本折り取り、持参してくれたもの。お陰様で毎日が花見(絵を描くのには少し邪魔だが)。

昨日は東武動物公園がチャリティーだけで入園できるというので、妻など動物を見に行った。私も迎えに行きながら、30分ほどホワイトタイガーなど見た。運動不足解消で一石二鳥。それにしても暑かった。

動物公園内も、そこへの道沿いも、どこもかしこも満開の桜で溢れている。けれど誰も、飽きたとも、もうウンザリとも言わないのが、桜の桜たるゆえんか。当たり障りのない、日本人的な存在感の薄さと、もうすぐ花吹雪となり、(少なくとも一年間は記憶からも)消えていく儚さが、自分たちに重なって共感するからかもしれない。