80回目の楽しみ

スケッチの楽しみ方に似ているようだ

俳句を始めて数年になる。毎月1回の句会も昨日で80回になった。途中で自分なりの工夫を凝らした時期もあったが、概ね惰性で、かつ句会前日の「ねつ造俳句」が今もほとんど。反省。

17文字が、やはり窮屈だと感じることが最近ある。(無季の俳句もあるが)俳句の基本的理解としては、一句にひとつの季語を入れることになっている。基本リズムは五、七、五。これを上(かみ)、中(なか)、下(しも)と呼ぶなら、多くは上か下かに季語が入り、その繋ぎでたいてい5文字を消費する。

残りは12文字だが、リズム上の制約があり、使える単語が絞られてくる。だから類想、類句が多くなる。というより、そうせざるを得なくなってくる

しかし、絵画における色の数より、単語の数は多い。色数の限られた絵画のイマジネーションが尽きることのないように、俳句もまた一語一字の選択や配置などによって、伝わる内容も微妙に変化する(ようだ)。こう書くと、職人的な楽しみ方しかないように聞こえるが、そうでもない。

では、俳句は本当に楽しいのか、と聞かれると、どうもよく分からない。ねつ造もそれなりの苦しさがあるから、やめても良さそうに思えるが、あえて止めもしない。たぶん、どこかに何らかの自己満足感があり、本当の楽しさといえばそれで十分なのかもしれない。

フランスの国鉄ストライキ

「或る軌跡」習作

フランスの国有鉄道が毎週2日ずつ、最大三か月続ける予定でストライキに入った。実施される日には、都市部の鉄道の8割以上が影響を受けるという情報もある。

日本ならあり得ない。という意味は二つある。ひとつは、「そんなに多くの人に迷惑をかけることは許されない、許さない」という意味。もう一つは「ストライキの意味が日本人には理解できない」ということ。

3ヶ月も続けるということは、そんなにも長いストライキが「フランスでは許される、許す」ということだし、それはその意味が理解されているということでもある。

ストライキは元々「人に迷惑をかけるため」にするものだ。それが「圧力」だから。「人に迷惑をかけないストライキ」など本来は矛盾である。しかし日本人は、良くも悪くも「人に迷惑をかけない」ことを、特に強調され、教育されてきたために、「迷惑だが、それは回り回って、結局は自分たちの為になる」という歴史を持つことが出来なかった。フランス人との差がそこに現れている。その理解がなければ「働く人の人権」は理解しにくいし、当然目の前の「働き方改革」も中身のあるものにはならないだろう。意識改革が必要だが、これには相当の「意識改革」が要る。

虫の目、鳥の目

Island ・浮かぶ男

「虫の目」とは人が見逃してしまいそうな、あるいは無視してしまいそうな、一見雑多な現象に見える事柄の中に、普遍的な価値や真実を探究する目や姿勢のこと。「鳥の目」とは高い、広いところから、小さな目先の木や、水溜りに捉われず、遠くの大きな森や広い沼や湖を見つけるように、ものの重要性や緊急性などを比較できる目の喩えである。

一人の人間にとって、どちらも一定程度必要であるにも拘らず、ほとんどの人はどちらか一方に偏りがちであるに違いない。けれども、それで困るかと言えば、案外に困った風にも見えない。それどころか、むしろ一方を非難する場合さえ、決して少なくはなさそうだ。

常識的に考えれば、どちらもほどほどという中間派が最大数になりそうだが、果たしてそれでいいだろうか。「目」という同じ語に騙されて、まっすぐな線の両端のように同じ次元に置いてしまっているが、そもそも比べられるものなのか。ちなみに、数学的に言えば線というものには端がない。いわゆる極端がない以上、どこをとっても中間としか言いようがない。

話を戻す。大雑把に言って、政治家に必要なのはどちらかと言えば鳥の目ではないか。「大所高所の見地から」という言葉は政治家の大好きな言葉の一つだが、昨今は大小、高低さえわかるかどうかも怪しいものだ。そのうえ、多くの人が見えているものにもまた気づかない。こういう、退化した目を持つ動物を何と呼べばいいのだろうか。決してモグラなどと言ってはいけない。それではモグラが可哀想だ。