二紀展、独立展を観て

昨日(10月20日)、乃木坂の国立新美術館で二紀展と独立展を観てきました。旧知の作家が二人も黒リボンつきで展示されていたのが悲しく、寂しい。

展覧会は団体展であれ、個展であれ、一種の体力勝負の場でもあります。集中力、研究心さえ体力がなければ続きませんから、体力も “実力” の一部であることは間違いありません。体力がないと展覧会を観に行く事さえできません。地方に住んでいる人はそれに加えて財力もないと、東京の展覧会に出品はもちろん、観に行くことさえかなりの負担です。
 団体展の会場では図録も売っているし、ある程度の団体ではホームページなどで会場作品を公開したりしていますが、絵を描く人は、実物作品を自分の目で見る必要が絶対にあります。一本の黒い線がどんな材料で描かれているのか、どんな下地にどのくらいの速さで引かれているのか等々、図録などではまったく分からないのです。

でも、それはそういうところに出品する人たちの話。一般の人は、むしろ大づかみに色やアイデアを楽しんで欲しいし、描く場合でもそんなふうにのびのび描いて欲しいものです。もともと絵は他人と競争するようなものではないでしょうから。

楽しく、のびのびと子ども心のままに描き、その積み重ねが知らず一つの高みに達する、というのが理想ですが、そんなこと、誰にでもできることではありません。都会の展覧会へ無理しなくても、小さなスケッチブックを持って、あるいは図書館から画集を借りて、絵に親しむ機会を増やすだけでも意味はあるんじゃないでしょうか。
 天才たちの作品や、展覧会の作品は、それぞれの道すじでの道案内のようなものなんです。

青柿のスケッチ

     「青柿」  水彩

今日はぐずつき気味の天気だったが、涼しいのは良かった(人によってはかなり冬支度に近い人も診かけた)。青柿が、赤い柿より絵になりやすいことは先日書いてしまったので、今日はそれについては書くことがない。とりあえずスケッチを載せる。青柿だから、柔らかくなりすぎるとか、食べるための心配は無用だから集中できる。

たったこれだけのスケッチでも、意外に時間がかかる。そして面白味がない。だからスケッチなどしない、と言う若い画家たちの話もすでに書いたことがある。それも然り。とくにわたしなどは、発表する作品はもっとずっと単純なかたちで、誰にでも描けそうなものを目指しているから、スケッチとのギャップはなおのこと大きい。

けれど、それを無駄だと思ったことはない。むしろ、年に数回の発表より、そういう普段のことの方が大事だと考えているから、たぶんこういうふうに正面から見えるように描いてみることが、自分にとって本質的なことなのだろうという気がする。

一生に一度も個展を開かず、一枚も絵を売らない画家もいる。だからといって、その画家を「単なるアマチュア」と言っていいかどうか。その画家が亡くなった時、多くの(それなりに知れた)画家たちが、作品を貰いに来たそうだ。

これじゃ魚は釣れない

          「ベビーシッター」  水彩

謎めいた絵になった。悪い意味で。もともとこの場所がやや現実離れした(実際は東京某所)謎めいた情景ではあったのだが、あれこれ理屈をつけて解かりやすくしたつもりでも、怪しい雰囲気までは解消しなかった(怪しい雰囲気自体はもちろんあってもいい)。

絵を描く人はすべてのモチーフをちゃんと解ったうえで描くものだ、などと出来そうもないことを言うつもりはないが、こんなモヤモヤはだめ。よく分からないことを、わからないまま描いているから、見る側にもそう伝わっている。

一番奥に、子どもが一人立っている。それがこの絵のヘソかな。構成上、画面の遠近法の焦点にいる。左手前、右の二人と、見る人の視線はジグザグにこのヘソに至る(はず)。この仕掛けによって、多くの人はきっとこの子の顔を見たくなるだろう。計算式はよかったが、それぞれの要素がどれも曖昧。これじゃ魚は釣れないな。