「自信」ではなく、「自身」

青いカモメの会 絵画展

第5回カモメの会 展が今日から始まった。今日は陳列と、午後1時からの開場。雨の予報だったが、開場中は何とか降られずに済んだ。ラッキー。

出品者は目前のゴールテープをとりあえず切ったので、ホットするのも束の間、気がつくと自分の作品が急に心もとなくなってうろたえ始める。あげく、自信無くしてしまいました、どうしたらいいんでしょう、などと言い出す。

残念ながら、こういう場合、放っておくのが一番。ある意味ではつまらぬ自信などない方が良いし、人に褒めてもらって付く自信など、次の批評ですぐにぐらつくに決まっている。

個性的であることが最も大事。けれど、それは必ずしも風変わりな作風であることを意味しない。世の常識に惑わされず、「等身大の自身」であることが重要で、それが結果として世の常識とぴったり同じであるはずはない、というだけのこと。

新しい誘惑

今年も似たように花は咲くが、誰も前の花など覚えてはいない

浮世絵版画の背景?に書かれた文字が読めないというイライラは以前からあったので、この際一挙両得ということで、変体仮名の勉強を始めた。(もともと外国語ではないので)覚悟を決めてかかったわりには、読みだけなら、それこそ基本のイロハを覚えれば何となく読める。江戸の庶民は基本的にひらがなしか読めないので、それで浮世絵の中の文字ならだいたい読めることになり、当座の目的は達成する。

けれど、読めるけれどなんの事だか分からない、というのがたくさんある。例えば江戸時代に使われた道具ひとつとっても、現在既に使われていないものについては、それが道具であることさえ分からない。それは江戸時代の文化や社会などについての知識がないからだ。

それを知りたいとなると厄介だ。どんどん深みにはまってしまう。これは危ない。どこかで切り上げないと大変なことになる。しかし、危険というものはたいていいつも興味と背中合せになっているものだ。はじめの一口がいつのまにか大酒飲みを作り出してしまうようなものか。

80回目の楽しみ

スケッチの楽しみ方に似ているようだ

俳句を始めて数年になる。毎月1回の句会も昨日で80回になった。途中で自分なりの工夫を凝らした時期もあったが、概ね惰性で、かつ句会前日の「ねつ造俳句」が今もほとんど。反省。

17文字が、やはり窮屈だと感じることが最近ある。(無季の俳句もあるが)俳句の基本的理解としては、一句にひとつの季語を入れることになっている。基本リズムは五、七、五。これを上(かみ)、中(なか)、下(しも)と呼ぶなら、多くは上か下かに季語が入り、その繋ぎでたいてい5文字を消費する。

残りは12文字だが、リズム上の制約があり、使える単語が絞られてくる。だから類想、類句が多くなる。というより、そうせざるを得なくなってくる

しかし、絵画における色の数より、単語の数は多い。色数の限られた絵画のイマジネーションが尽きることのないように、俳句もまた一語一字の選択や配置などによって、伝わる内容も微妙に変化する(ようだ)。こう書くと、職人的な楽しみ方しかないように聞こえるが、そうでもない。

では、俳句は本当に楽しいのか、と聞かれると、どうもよく分からない。ねつ造もそれなりの苦しさがあるから、やめても良さそうに思えるが、あえて止めもしない。たぶん、どこかに何らかの自己満足感があり、本当の楽しさといえばそれで十分なのかもしれない。