エミリー・ウングワレ

エミリー・ウングワレ「私の故郷」1992

エミリー・ウングワレ(Emily Kame Kngwarreye 1910?-1996)はオーストラリアの中央砂漠の端の小さな集落に、アボリジニとして生まれた。いわゆる西洋式の教育を殆ど受けたことがなく、アボリジニの伝統、しきたりの中で育ち、そこから出たこともなかった。

オーストラリア政府の教育プロジェクトの一環として、近くで美術と工芸のプログラムが始められ、エミリーがそれに参加したのはもう80歳目前の時だ。始めはバティック(染色の一種)を学んだが、2年ほどして美術の授業を受け、そこで初めてキャンバスに絵を描くことを体験する。それまでは(西洋)絵画に関する一切の知識も経験もなく、絵筆を握ったことさえなかった。

この時のプログラムの最後に受講者たちの展覧会が開かれ、そこでエミリーの絵が注目を浴びる。1〜2年のうちに現代絵画の世界的な展覧会に招待されるようになり、オーストラリアを代表する作家になる。絵というものに触れた瞬間から、亡くなるまでのわずか5〜6年、世界の現代絵画のなかで特別な位置を占めるまでになった。

彼女自身にとってはそのような栄光にほとんど意味はなく、依然として砂漠に住み、周囲の自然の感覚の中でヤムイモの収穫を祈り、それを食べ、感謝の唄を歌い、踊る。キャンバスに絵具を塗ることも、そのような自然な生活の一部分になったということに、彼女自身の意味がある。1点数億円で自分の絵が売買されることより、ヤムイモや地の霊を思い、そこに捧げる歌や踊りのもう一つの方法を、絵という形で獲得したことが、彼女にとっての価値になった。計算するとほぼ1日1枚、毎朝顔を洗うように、昼寝をするのと同じように描いていたらしい、3000枚の絵。私はエミリーが亡くなって2年後に、その大展覧会を見た。

面白い本

面白くできたかな?「Apple」と「鳥の習作」

最近読んだ2冊の本。「ほぼ命がけーサメ図鑑」沼口麻子、「身近な雑草の愉快な生き方」稲垣栄洋著、ちくま文庫。「サメ…」は図鑑…確かに図鑑的な内容ももちつつ、ほぼ(研究)エッセイという、少し変わった本。ほぼ体当たり体験でサメ愛に没頭する、その情熱が伝わってくる結構ボリュームのある本。「身近な…」も著者は植物研究者。最近たくさんの本を出しているが、これは文庫で、50種の雑草についての、研究者の視点をベースにしたエッセイ。俳句をやる人にはおススメだ。ただの草が、ただ者でないことを知らずに「草分けて」などとは詠めなくなる。

「ミロの絵本–うっかり地球へ」結城昌子 小学館 という絵本がある。小学低学年対象かな。ミロに注目したところがミソ。図書館へ行くと、子ども対象のアートの本もたくさんある。けれど、大人目線で、言葉だけ理解しやすくしてある、一言で言えば大人感覚の押しつけ、「覚えましょう本」が多い。「ミロ…」を子どもは3分でミルに違いない。けれど、もしかしたら、中身は一生残るかも。大人も一見あれ。

面白い本を読み、見て常に感じるのは、何をやるにも十年単位の「時間がかかるんだな」ということ。著者の情熱が、単なる知識を伝えるだけに終わらせず、著者自身に様々な体験をさせ、冒険をさせてしまう。著者自身が体験的に過ごしてきた、その数百分の一、数千分の一の時間を著者と共有させてくれる本。それが私の「面白い本」の定義であるらしい。

見る

Apple

「見る」ということが(見る、だけでなく全てのものがそうだろうが)複層的な構造をしているということは誰でも経験的に知っている。複層的とは、「見る」にも、生理的以外に心理的な面など(むしろそちらの方がここでは問題だ)たくさん意味があるということ。味を見る、調べる、検査する、試行する、考えるなど、「見る」にもたくさんの意味があり、私たちはそれらの意味を意識的、無意識的に、切り替えて「見て」いるということ。

なあんだ、国語の問題ではないか、という人もいるだろう。けれど、私たちが絵を描き、絵を見る時、あるいは音楽を聴く時でも、音に反応し、色に反応し、作者を知ればその知見がまた反応にフィードバックし、その度にまた新しいものが見えたり、せっかく見えたものが失われたりする、現実の「見る」ことに直面するわけで、決してたんに言葉=国語の問題として、済ますことはできない。

そういう意味で絵を「見る」ことは(難しいということではなく)単純なことではない。描くこととほとんど変わらないのではないか、とさえ思える。描く方が、むしろ絵の具の取り扱いやその他のことに取紛れ、対象も画面もろくに見ていないことさえあり得る。

その上で、あらためて「単純に見る」ことの意味を考える。