自然貧乏

「Appleのある静物・習作」(部分) 2019/8/25

今年の下北滞在はつい「頑張ってしまった」。28日に帰ると仮定して、たったの20日間、例年のごとく、頑張って仕事してしまった。作品の写真締め切りが近いせいもあるが、つくづく貧乏人根性が染み付いているんだなあと思う。

実はテントを持ってきていた(なのに、テントを張るようなところに1日も出かけなかった)。山にでも海辺にでもテントを張って終日ゴロゴロ寝転んでいればいいし、晴れたら海でも川でも釣りにでも行けば良かったじゃないか、と今頃になって釣り道具を用意する「気持ちもなかった」ことを残念に思う。

川は水が流れているだけではない(それは川ではなく、単なる水路のことだ)。昨日、黄貂の話をしたが、自然の川とはそれらの動物やその餌となる植物やら何やらと一体になっている、「環境」そのもののことだ。自然のそばにいて「環境」に関わらない時間というものを持っていいものだろうか。それが「雪の中であの美しい黄色をもう一度見たい」などと口走る自分の在りようなのだろうか。

「あ〜あ」。幾つになっても幼い我が精神よ(幼稚だと言っているだけですよ。「若い」という意味はありません)。「豊かさとはなにか」。考えるヒントはゴロゴロしているのに、ゴロゴロしない人には見えないんだなあ。がっくり。

下北の黄貂(きてん)

黄貂(きてん)。まだ若い個体だった

85歳の叔母がペースメーカの埋め込み手術をしてから今日で4日目。むつ市まで見舞いに行く峠の道で、路上に横たわる黄色のものを通り過ぎた。「黄貂だ」。中学生の頃、私も何度かわなで捕獲したことがあったので、すぐピンと来た。

カーブの坂道に沿って車をバック。肉付きのしっかりした、まだ若い個体だ。しかも車に撥ねられた直後らしく、まだ体は生暖かい。どこからも血も体液も流れていない。脳震盪程度であればいいと願ったが、残念ながら瞳孔が開いていた。

貂(てん)はイタチ科テン属の肉食動物。茶色や黒の毛色のものが多いが、下北産の黄貂は特に冬は非常に美しい黄色で知られ、かつては高値で取引された。この黄貂はまだ成長途中で、しかも夏毛だからそれほどには見えないが、黄色の根元の毛は白かったので、成長したらきっと美しい冬毛になったに違いない。数十年ぶりにみる野生の黄貂だった。

野生動物の保護は今では世界の趨勢。私も再び捕らえたいなどとは思わない。が、もう一度、降りしきる雪の中で、野生のあの美しい黄色を見たいとは思う。誰かが拾ったか、鳥か動物が咥えていったか、帰り道にもう姿はなかった。

制作三昧

「3つのかたち」習作

涼しい、というよりちょっと寒い。ここ3日間ほどずっと雨と霧。時々はかなり強く降った。近くのチョロチョロの川も茶色の濁流となり、川幅も5倍ほどに広がっていた。

大きな絵はなかなか進まない。事前のエスキースが不十分だったから。なぜ十分にエスキースできなかったのかと遡れば、結局は自分の中の迷いに原因がある。なぜ、何を、どう迷うのか、それは言わないことにしておく。

小さな絵はいろいろ試みる。天気は悪いし、涼しいし、そもそもここで他にやれることは、本を読むことと寝ることくらいしかない。でも、暇というのは貴重なものだ、と思う。暇を大事に活用する、という考えがすでに間違っている、とも思いつつ。