そんなことは二度と御免だ

美味しいご飯はうれしい。そんな企画、「家族が喜ぶレシピ」紹介アプリがびっしり。

私も見る。でも、はっきり言えば「御免だね」。美味しいご飯は、1人で作って、1人だけで黙々味わうに限る、少なくともこの国、日本では。「1人で食べても美味しくない」なんて、実によく考えられた女性蔑視の「国宝」的表現だわね。日本という国は、そんな風に女性を「奴隷であることに喜びを感じ(させ)る」教育に実に巧みな国だ。

感謝などされなくてもいい。生きているうちに、小さくても幸せを味わえる方がいいじゃないか。そんな日はもう二度と来ないんだし。

「家族の核」だった、なんて墓の前で線香一本供えられて、それがなんだっていうの?私は「核」だったって?違うでしょ、あなたたち一人一人が「私が核よ」と主張したから、私は一歩引いて「核のステージ」になったんでしょ?

でも、私はただの「被害者」じゃない。「ばかな」というおまけがつく。なんだかんだあるけれど、自分で自分を諦めたのは「自分」じゃないか。諦めるのは「大人になった」からじゃない、「ばか」になったからだ。それが今になってわかるなんて、悔しいじゃないか。

葛飾北斎と伊藤若冲

「奇想の系譜」展が東京都美術館で開催中だ。まだ見ていないが、ぜひ行ってみたい展覧会だ。学生の時(今から44年以上前)。本で読み、以来ずっと私の脳の片隅から消え去ることがなかった、一つの絵画論としての辻惟雄「奇想の系譜」。私の秘蔵書の一つだが、本展はこの本の「視覚化」だ。イメージとしては本の方が強いが、見ない理由はない。

昨年(一昨年?)、若冲展があったが、大評判になり、長蛇の列のおかげで見ることができなかった。見に行った人からの賞賛を聞いたり、図録を見せてもらいながら、「若冲なんてそれほどのもんじゃない」と改めて感じた。人気はマスコミが作り上げた虚像だ。

そう言うからといっても私は若冲の批判者ではなく、ファンの1人である。多くの人がその名を知らない頃から、私には「これが若冲だ」と言う、好きな絵があった。「群鶏図」。若冲にはそれ以上の絵はない。ところが先述の「若冲ブーム」があって、あたかも若冲が日本絵画を代表するかのような錯覚が(一時ファンの間で)起きている。私も若冲は好きであるが、北斎と並べようなどとは思わない。若冲狂いには悪いが、「格が違う」。だが、違っていいのである。それが若冲を貶めることには必ずしもならないことが、若冲たる所以だと理解できない人は「若冲ファン」を標榜するのをやめた方がいい。

曾我蕭白も楽しみだ。彼などある意味、「国際作家」北斎を超えている。彼らの天才性を見るということは、私たち真面目人間には真似のできない凄さを体感すると同時に、それが「私たちと同じ」人間のしでかしたことを見る嬉しさを感じる時間ではないかと、期待しているところ。

明日は来ない

「かもめ」(エスキース)

 先月末、3ヶ月ごとの腰の定期受診をした。痛みもなく、かなり順調に来ていた腰の調子がだんだん下降気味になって来ていたので、そのことを医師に告げると、「筋トレの質を上げる」よう指示された。確かにちょっとサボり気味だった。その日から「質」を意識しつつ、回数も増やすことにした。

 具体的には、一回ごとに筋肉に手を当て、ちゃんと力が入っているかを確認、持続時間もきちんとカウントする、程度のことだが時間は倍以上かかることになった。忙しいふりをして適当にごまかしていたところをキチンとする、それを(今までより)心がけた。今夜、たまたまラジオで近畿大学准教授・谷本道哉氏の「筋肉は裏切らない」を聞いた。「そうなんだー」。

 明日から自分も筋肉体操やろう。「そう思った人に明日は来ません」と彼は番組の最後に言った。–そうなんだ。すぐやるか、明日やるかが「心の老化の差」と直感した。子どもの頃、思いついたこと、やりたいことを明日まで待てなかったではないか。いつの間にか「無理しない」つもりが体だけでなく「心」まで怠けさせてしまっている。動物や植物など自然の生き物ががなぜ私を惹きつけるのか、その理由にも思い至った。