「湖池屋 ハッシュドポテト」を描く

koikeya ハッシュドポテト S1さん

koikeya ハッシュドポテト S2さん

水彩教室の生徒さんの習作です。最近急にクラスごとにやり始めた、「写真的」「どこにでもある」商品シリーズ?の、イラスト画にも通じる習作の一点(その経緯についてはすでに書いてあるので繰り返しません)。あれこれ言うより先に、まず、ずいぶん頑張って描いていると思いませんか?

こういうモチーフを(少なくとも教室では)描くのは初めてなので、最初は要求されているレベルが高すぎるのではないかと恐れていたようでしたが、そのうちどうやら新しいものにチャレンジしようという好奇心の方がまさったようです。

作者はどちらも「Sさん」なので、便宜上S1さんとS2さんとさせていただきました。できるだけ「写真そっくり」に描くのがテーマなのですが、そこは手描きの魅力、作者の個性が微妙に「味」を出しています(ベーコン味と塩味、という意味ではありませんよ)。同じ作者ではないかと思えるくらい近いということは、それだけの(個性とはべつに)技術があるということになるでしょう。特に水彩は、その扱い方において、一段と難しい部類の画材ですから、途中で諦めずに、ここまで辿り着いたことを喜んでいます。

他のクラスでも、クラスごとに難問を(わたしに)押しつけられて「困って」いるようです。それを何とか乗り越えて(自分なりの)ゴールにたどり着いて頂きたいと願っています。その際は、それぞれのゴールも掲載してみたいと思います。youtube「青いカモメの絵画教室」にも、順次掲載していきます(わたしのパソコン能力不足のため、「随時」と言えないところがつらいところです。暫時勉強中)。

ネット社会と「わたしの意味」

GABANのブラックペパーを描く (制作中)

午前中はソーシャルネットワークの中での自分のことを考えていた。つまり、そういう世界の中で自分の生きていく意味を。家族のため、というのはあるが、それ以上の自分の意味というものがあるのかどうか。これまでも何度も考えてきたことだけれど、どう考えても意味が見えてこない。要するに、このネットワーク社会のなかでは、自分の生きる場所がないのだ。

良くも悪くも、わたしは一人でいる方が楽しい。もちろん私は人間嫌いというほどではない。そこそこ誰とでも付き合っていける(だろうと思っている)。けれどその一方で、誰からも相手にされなくても特に孤独に悩むということもないだろうと思う。「人間は一人では生きていけない」とよく言われるが、それなら大勢の中で自分の生きる場所を失い、自殺する人々をどう説明するのだろうか。一人であろうと、他人の中にいようと、そんなことはたぶん本質的なことではないのだ。どこであろうと、死ぬときは死ぬ。その場所が、森の中であろうと病院であろうと、ましてや「自宅」であろうとそんなことはどうでもいい。

祖父は臨終の少し前、しきりに自宅に帰りたがった。周りにいる家族は皆噓をついて、とうとう病院で死なせた。祖母も父も母も病院で死んだ。そのほうが家族にとって「便利だ」という以外に、少なくとも本人にとって何の意味もないことはよく解った。そして、「(自分の)死は自分一人で向き合うべきだ」とも考えた。これからはその方法をしっかり考えておかなくてはならない。

GABANのブラックペパーを描いている。机の上においてもう1ヶ月になる。その間に他のもろもろを描き、ついつい後回しになった。描くのは「銀色」の「反射」。微妙な周囲の色を含んだ「無色」をどう描くか。「ポカリスエット」を描いたとき、意外に簡単だったので、それがマグレなのか確かめたい。こんなものを描いても、それがお金になるとき以外に、誰も関心など持たない。すべての「意味」など、きっとその程度の意味しかないから絵が描けるんだろう。

「再現性」再考

湖池屋ポテトチップスを描く(油彩)

ここのところ急にポテトチップスだの、チョコレートだのと「お菓子」づいている。「伝統的な『絵画モチーフ』以外」を描くことで、画題的にも、技術的にもあらたな発見を求めようとしているが、これもその一環。今回は、モチーフはそれぞれ異なるが、どのクラスにも同じコンセプトを強いている。どのクラスの分もデモ制作しようと考えたら、毎日 のようにデモ関連の制作を続ける羽目になってしまった。

一番勉強になるのは、モチーフを強いているわたし自身だろう。モチーフ探しの場所もこれまでと180° 違い、近所のいくつかのスーパーだのコンビニだのを回るようになった。CGでも写実というより、写真的な「技術性」を求めて制作を試みている。

写真的描写=上手というだけの低レベルの常識を変えたいという思いから、これまではあえて細かい描写性を遠ざけてきた。けれど、そのことが逆に「伝統的な」絵画性にわたし自身を含めて縛りつけてしまったのかもしれない。そんな反省から、「イラスト」まで含めての絵画「再発見」と現実的な「技術的」観点から、あえて写真的描写にフォーカスしている。

「再現性」に対する人間の欲求はとてつもなく強い。学者の意見を聞くまでもなくビデオだの音楽におけるレコードだのを考えるだけで簡単に想像がつく。再現性に対して「即興的・抽象的イメージ」があるが、「論理性」に目を向けると、「再現性」に関する、人間の執拗なまでの努力の歴史が浮かび上がってくる。これを単に「つまらない・面白くない」というだけでは皮相に過ぎるだろう。好き嫌いを越えて、もう一度向き合いなおす機会でもある、と考えている。