わたしのビデオ製作

懸案だった、上のビデオをやっとYouTubeにアップしました。4時間以上の収録を16分50秒にまとめた。カメラで撮ったように思っていたが、あとで見るとスマートフォンでの撮影。そのため画質はイマイチだが、わたしにとってはかなり苦労したビデオなので、ぜひ見てやってくださいませ m(__)m。(真ん中の▷を押すと見られます)
 これからチャンネル登録者「100人」を目指すので、ついでによろしくお願いします。「100人」に特別な意味はないのですが(わたしにどこからかお金が降ってくるなどということなども、もちろんありません)、ビデオを作り続ける励みになると、どの方も仰っていますのでひとつの目標です。
 ちなみにYouTube 見てもお金はかからないし、登録したからといってなんの義務も生じません(「新作が出来たよ~」というお知らせが届く以外にメリット?もありませんが)。

苦労話を一つだけ。BGM。ビデオの背後に何気なく流れている音楽のこと。その音楽をわたし自身が作曲、演奏しています―なんてわけはありません。どこからか頂いてくるわけですが、まず、どこにそんなのがあるか調べることから始まって、見つけたサイトから著作権フリーの音楽をダウンロード。どれがいいか聴き比べますが、音楽の素養が全くないわたしには、どれが適切なのかまったく分からないことがよく解りました。
 選べば選んだで、今度はどれも同じに聞こえてしまう。しかも、ナレーション優先で音量をずっと絞るので、耳が遠くなったわたしには、ほぼ聞こえなくなってしまうという事態。ヘッドホンで解決できる問題ではないので、周波数とデジタル数値を理解するという難題が出来てしまいました。

ビデオの基本は映像、語りや字幕、それに音楽の3点セットだそうです。そんなビデオを100本作れば何とか作業は覚えられるそうですが、わたしの場合、これが3本目。映像担当者、文字・文章担当、音楽担当、制作担当兼監督(わたしだ)の4人いればペースはあがるが、ビジネスでもないのにそんなことはできません。老齢化とともに、ペースはさらに落ちるでしょうから、100本できるころにはわたしの寿命は尽きてしまう。文字どおり冥土への土産なのか。うーむ。やるべきか、やめるべきか、ハムレット的心境もあり。

プラチナ・ジュビリー

晨春会展も無事終了。乾杯!

英国・エリザベス女王の即位70周年を祝う祝賀行事が4日間の国民の特別休暇とされた。その最終日のパレードと、バッキンガム宮殿のバルコニーから手を振る、96歳の女王の姿が全世界に向かって放映された。

「英国とは何か」を、深く、象徴的に感じさせるシーンだった。ヨーロッパはいま二つに分かれ、ウクライナの地で戦争中だ。イギリスは相当の負担を自らウクライナに注いでいる。「でも、それとこれとは別だ」という、あたりまえのようだが、いざとなれば決してあたりまえには行えない、このような「(女王とはいえ)個人的行事」を、いま堂々と誇示する「プライド」にそれを感じる。

経済力から言っても、政治力から言っても、軍事力から言っても、かつての大英帝国はもう世界のベストスリーには数えられない。にもかかわらず、第二次世界大戦中、ドイツから爆撃やロケット攻撃をうけて、ドアも壁も吹き飛ばされたロンドンのレストランが、「間口を少し広げました」と掲げたジョークに込められた、いかにも騎士的な精神が、このプラチナ・ジュビリーにも根太くつながっていると感じる。たとえば軍事力のような、眼に見える力だけが力ではない。在位70年、ぶっきらぼうで、時には冷たい皮肉屋のイギリス人と一見矛盾するかのような、「前近代的」君主制度。「それが俺たちさ」と誰に対しても普通に言い、それが敬意とある種の羨望を伴って世界中に受け入れられる国が、英国以外のどこにあるだろうか。

イギリスは合理主義の国だ。けれど、実は矛盾も、不合理もあるいは他の国よりも重く、深く抱えているようでもある。世界を、いったんはまるごと飲み込んできた、桁外れな度量の大きさと、死にゆく巨象の眼を覗き込むような、どこかに哀しみを含んだその歴史。70年かけて、女王の存在を「諾」と祝福しつつ、決して単純なお祭りに終わらない、イギリスの深さを感じさせた。

ヴァリエーション(変相)

昇仙峡(水の流れ)
川遊び
磯遊び

絵画で言うヴァリエーションとは変相、相(姿・かたち)を変えてみること。「水の(透明感)表現」を今月のテーマにする水彩画教室があったので、わたしもデモ制作として何点か描いてみた。
 1点目は実際の状況に近く、2点目はそこに子どもを置き、川辺の涼しさを体感的に表現することに狙いを変えた。3点目は川ではなく海辺まで変相を広げ、都会的な磯遊びの感覚を構想してみた。描いていると、川と海との光線の強さの違いをだんだんと思いだす。子どもの頃の感覚はこの歳になっても案外覚えているものだ。
 このような試みは多くの人が実際にやっていることで、絵画の構成力を高めるためにはとてもいい方法だが、面倒がってやらない人の方がたぶん圧倒的に多いと思う。一つのモチーフで一枚描くだけでは、常にモチーフ探しをし続けなくてはならないことになる。かつて、教室に、画面中に必ず自分自身を描き込む人がいたが、ヴァリエーションを構想しやすい、いいアイデアだと思った。