なんとも言えない気分

5月8日午前アップロードしました。

連休の半分の日数を使ってこのビデオを製作。ほかにも1本作ったので、六本木の国立新美術館へ国展を見に行ったのを除けば、連休はすべてビデオ編集に遣ってしまった。制作中の6号のテンペラの新作も途中でストップ。それでも連休後のアップロード。

いまAIだけで完全ビデオ製作をすることが始まっている。ビデオを作るのにカメラさえ要らない。スマートフォンをカメラにして?ではなく、まったくのカメラ無し。カメラ不要なのだからもちろん他の撮影機材もそれらの技術も要らない。動画編集ソフトも要らないから編集技術も時間も無用。必要なのはとりあえずパソコンとAIソフト。

もうひとつ必要なのはアイデアだが、それさえ“不可欠”ではない。たとえばタイトルを「夏の浜辺で夕方を過ごす”」としよう。大雑把にストーリーを「文章」で書く。
 するとAIがそのストーリーに基づいた「台本」を数十秒から数分のあいだに提示する。それにあった写真(絵でもよい)、または動画もついている。台本を誰が読むか、キャラクターを選択。声の質や話す早さも調節できる。テロップも提示してくれるし、フォントも自由に選べる。気に入らないところは書き直しできる・・・etc.
 こうして数分~十数分で、手持ちの写真一枚さえなくても1本の動画が完成する。当然自分の写真を使うこともできるから、誰でもその動画の主人公になることに手間はかからない。しかも、できたビデオの著作権(意味があるかどうかは別として)は自分のものだ。もしかするともう皆さんも、知らないうちにAIの作った動画をすでに見ているかもしれない。

わたしがこのビデオにかけた時間や、これまでの練習期間は無駄だったの?と言いたくなるような情けない気持ちになる。けれど、あっという間にほとんどの動画がそうなるに違いない。努力など、誰だってできればしたくないはずだから。
 先日も書いたが、アメリカの葬儀社だったか、故人の写真や生前の声があれば、故人と家族がビデオで『会話すること』がすでにビジネスになっている。会話の内容は、故人が亡くなった後、つまり「現時点」のこと。故人が書いたり話したりした文章・資料などが残っていれば、そこからその人らしい話の内容、話し方の癖まで再現するという。100年前の先祖と2023年の今日の話題について会話できるように「なった」のである。一歩深く考えると恐ろしいことでもある。
 目先のことを考えても、テレビ局も潰れるところが出るだろうし、映像技術者もおおかたは失業するだろう。“AIが人類の未来を拓く”という人と、“パンドラの箱は開けられてしまった”と考える人はまだ半々らしいが、今のところわたしは後者である。

スピードと“いいね”

一見アジサイに見えないが、よく見るとたしかにアジサイの仲間だ

情報の発信力が大事だと、企業や自治体だけでなく個人に対しても言われる時代。どんどん新しい機材が開発され、パソコンのことなどほぼ知らなくても、世界中へ発信することが誰でもできるようになった(たとえばTwitterなど)。

一方で、発信された情報を吟味する力、いわゆる情報リテラシーの方は、「自分を護るためにも必要だ」というだけでどうも具体性がない。その方法もその養成法も「本人任せ」か「いろいろ勉強(経験)して」というばかり(だとわたしには思える)。言う方もたぶんどうしたらいいかわからないのだろう。

だから(?)発信量が異常に大きくなる。発信するのは「認知されたい」からであるから、1回よりは10回、100回よりは1万回発信する方が有利なのは当然だ。1回の情報発信に丁寧に時間をかけるより、不満足でも100回の方が良く、相当不満足でも1万回、というふうに流れていくのも、ある意味で自然。そしてどこかで“いいね”を貰えたら(反応があったら)そこに集中する。中身よりスピードが最優先だ。
 “いいね”を出す側、つまり受信側には「リテラシー」がない。そういう状況で、たまたま気まぐれに 反応する。そうはいっても1万回だの100万回も“いいね”がつくのは、やはりそれなりの説得力があるのではないか、と多くの人が思うから、そこで情報のサイクルができあがる。
 でも、現代では、たとえ1億回再生されたビデオでさえ(そんなのももう珍しくない)、それを覚えている人などほぼいない、どころか数日後にはもう忘れられていく。それのどこに「説得力」なんてあるのだろう。発信側の単なる思い込みとどこが違うというのだろう。

10人に手紙を書くのは大変だ。内容が混み入ってくれば1通の手紙にも何日もかかったりする。親身なものであればあるほど、ストレスにもなる。そういう状況は(上記の事情で)現代では歓迎されないから、チャットGPTにでも、なるべく丁寧かつ決して『儀礼以上ではない』手紙を「自動で発信」してもらうのが一番よい。なにより、そんな手紙を書いたって“いいね”は貰えない。スピードがいのち。いいねが貰えなければやる価値がないのである、“いいね”そのものの価値を問わない限りは。

同じことが繰り返せない

昨日18:00 アップ

同じことのくり返しができない。飽きるとかそういうことではなく、単純にくり返すことができない。2回目まではなんとかなるが、3回目になるともう自信がない。

「同じこと」はできないが、「似たようなこと」はなんとかくり返し(?)できる。たとえば皿洗い。皿洗いは毎日毎回少しずつ違う食器を使うので「似たようなこと」だが「同じこと」ではない(屁理屈のようだが、わたし的にはまじめに区別している)から続けることができる。けれど、たとえば同じ皿だけ20枚、30枚洗うのはちょっと大変。どこかで落として割るのではないかと、緊張してしまう。「慣れ」が苦手らしい。

言われるまでもなく、現実には「同じこと、同じもの」というのは存在しない。あくまで感覚の問題である。(だから?)それは自分の(感覚の)問題かと思っていたが、どうやら多かれ少なかれ、人間全体がそうできているものらしい(一安心)。
 人類史を考えてみると、毎日毎日その日の食料を探し、自身や家族を厳しい自然環境や敵から身を護るのに、一瞬たりとも「同じこと」を現実に繰り返すことはなかった(できなかった)に違いない。そういう意味では「同じこと」を「繰り返す」ことが「できるようになった」のは文明の力であり、きわめて最近のことなのだ。人間の(脳の)機能に「単純くり返し」が組み込まれていたら、むしろ人類はここまで生き延びていなかったのかもしれない。

現代は(モノや社会に対しての)「慣れ」を要求する。「慣れること」が本人だけでなく、むしろ社会にとっても負担が少ない、と認識されているからだ。「慣れ」の苦手な自分がマイナーな気分になったことも、たぶんそこに起因する。
 現代人はビデオ製作などを総称してクリエイティブ(創作)と呼ぶが、そこには逆説的にではあるが、人類の“ふるさと”である「慣れないこと」に向かっての憧憬が、無意識に働いているような気がする。