深呼吸

「ローズ・ガーデン」水彩教室でのデモ制作

「一読十笑百吸千字万歩」という、健康で長生きの秘訣をまとめた語をご存知でしょうか。毎日の健康実践目標だそうです。ご存知の方も多いと思いますが、「一読」は一日一回は内容のある文章を読む(「毎日一冊」はかなり無理)。十笑は大きな声で十回は笑うこと。百吸は深呼吸を百回、千字は文章を書くこと、アウトプットですね。日記でもいいかも知れません。万歩は文字通り1万歩くこと(最近では8000歩くらいが良いともいわれているようですが)です。出典は分かりませんが「論語」か何かでしょうか。

わたしはわりと最近になってこの語を、当時それを実践している方から教えて頂きました(現在はご高齢になり、「万歩」ができなくなっているようですが)。一つの理想論と思って聞いていましたが、それを長い間実際に続けていると聞いて仰天してしまいました。ご想像どおり、そういう人はただの人ではありません。わたしも感銘を受け、少しでも真似してみようと思ったのですが、達成できたことは一日もありません。高校生、大学生あたりならできそうな気もしますから、その頃からやっていれば、わたしももう少しマシな人になっていた「可能性」はあった「かもしれません」。

先ほどの目標のうち、意外にできそうでできないのが「十笑」と「百吸」です。笑うことと息を吸うことですから、一番自然で簡単なことのように思えるのですが、自分や家族の中に問題を抱えていたり、忙しかったりするとできないものです。この語のなかでは、意志、意識、知識に関わるのが「一読」と「千字」。「百吸、万歩」が身体、「十笑」が心に関わること、だと思います。心が閉じていれば笑うことができません(医学的にはハッハッハッハと声を出せば似たような効果があるそうですが)。
 怠け者でもできそうなのが唯一「深呼吸」ではないかと思うのですが、今度は忘れてしまうのです。百回というと一気にというわけにはいきません。何回かにわけてやることになるでしょうが、忙しいとつい後回しになり、結局は忘れてしまうのです。身体に関わると分類しましたが、やっぱり心がざわついているとできません。心を平らかにしなさい、ストレスを身体から吐き出す、という訓えなんでしょうね。

わたしの実践は、その方の十分の一がせいぜいでした。それを心がけていてさえも、です。皆さんはいかがでしょうか。せめて深呼吸だけでもしよう・・そうか、深呼吸って、姿勢が悪いとできないのか・・忙しさに紛れて自分を忘れてちゃできないんだ・・立ち止まって自分をじっと見ることなんだな―・・なんて。 深呼吸って意外に深いなあ・・。

晨春会’23 展を終わって

「庭を見る」テンペラ F6  2010

昨日(2023.06.18)で晨春会展が終わりました。わざわざ時間を取って見に来て下さった皆さん、ありがとうございます。感謝です。わたし自身もいろいろな方から、展覧会の案内状を頂くのですが、忙しさだけでなく、体調不良などで行けないことも多いので、「わざわざ」という言葉を実感を持って感じます。ありがとうございました。

今日から次のスケジュールに移ります、というだけではなんだか殺風景な挨拶ですが、実情はそんなところなんです。「次のスケジュール」って新作に取り掛かるかのように聞こえるかもしれませんが、実はさらに無粋なことに、まずは展覧会の後始末。それから中断していた細々の世事、やりかけの雑事をできるだけ済まして、やっと描きかけ、あるいは新作に取り掛かることができます。絵にとりかかるまでのモロモロを考えると、正直かなりウンザリです。でも、わたしだけでなく、皆がそうなのですから、呑み込むしかないのですが。

会期中の6日間、たくさんの人が見に来て下さり、メンバーがそれぞれの絵の前で簡単な説明をしたりします。絵は見ればいいだけで、解釈も自由にしていいのですから、説明など蛇足なだけでなく、見る人の感性や解釈にある方向性を与えてしまうマイナス面も持っています。その点では、できるだけ何も言わない方がいいと思っているのですが、どうもそれだけではなさそうです。
 他人に説明することは、目の前の自分の絵とこれまでの過程について、これから描く絵について、一枚の絵の外側からも考えるきっかけになります。それは作家にとって大きなプラス面で、展覧会はそのためにやっているといってもいいほどです。本当は深く自問自答すればいいだけの話かもしれませんが、見知らぬ他人との問答を繰り返すことが、普段とは別の新しいフィルターで自分の思考をろ過し、研ぎ澄ましていくことにもなるように思います。

ただ、やっぱり普段と違うことをするので、変な具合に疲れます。若い時は展覧会の前2~3カ月間は目の前の絵以外は何も目に留まらないほど集中、閉会後の2~3カ月は虚脱状態で他に何にもできないほどのアップダウンでした。いまはもう個展もしなくなり、そんなこともなくなりましたが、それでも疲れるのは年齢が加算されているからかも知れません。あと10年、いやあと5年、何を最後に表現できるのか、大げさかもしれませんが、人生の意味が問われているんだなと、期間中ずっと考えていました。

「今が愉しい」と言う「輝き」

汗血馬 ミクストメディア 2010

あなたは「今が愉しい」でしょうか。ごく最近、この言葉を何人かの人から聞くことがあって、それはどういうことなのだろうかとちょっと考えてみたのです。残念ですが、わたし自身は、今はそう言える自信がありません。

一人は数年前ガンを患い、一時は人前に出るのも嫌になり、鬱気味にさえなったそうですが、そこから発想を転換、ささやかながら充実感のある生活を楽しんでいるとのこと。一人は高齢ながら多趣味多芸の才を活かし、健康に注意しつつ飛び回る日々。一人は長い間難病と付き合いながら何度も絶望しかけ、小康状態を保ちながら絵を描く喜びを感じているとのことでした。他にも、おなじようにどこかで苦しい時期を乗り越え(あるいは渦中にありながら)、「今が一番愉しい」という人が何人かいます。

若い頃にもおなじような言葉を聞いていたはずですが、自分自身が老齢になってきた今はその聞こえ方が違ってきました。若い頃はそれを「小さな満足」と多少軽蔑的な思考でとらえがちでした。今は、時が経てばたつほどそれが「貴重なもの」なんだと思うようになってきたのです。「今が愉しいですか」という問いに答えにくい人、答える気持ちにさえなれない人、そういう人ほどそれがいかに貴重かを本当は深く感じているに違いありません。
 ウクライナでの戦争だけでなく、昨夜もたくさんの難民を乗せたボートが沿岸警備艇の目の前で転覆、100人近くも乗っていた子どももほとんど絶望的な状況だというニュースがありました。そういうことが世界のあちこちでずっと続いているのです。戦争のない日本でさえ、大雨、地震などで突然家を失い、放り出されるのを見ることが稀ではありません。“戦争できる”国にしようなど、愚の骨頂としか思えません。

今、好きな絵を描き、好きな音楽を自由に聞くことができる。そのことがけっして「小さな満足」なんかじゃない、ということがやっとこの歳になってわたしにも解ってきたということです。わたしは随分とぼけた人間ですが、それでも人間だけでなく、あらゆる動物、植物も「生きている」ということは、この瞬間でさえ実は命の奪い合いをしていることに他なりません。そこまで含めないとしても「今が愉しい」と言えることは、小さな満足どころか、この有限の地球の上では「奇跡」に近い輝きだと言っていいのではないでしょうか。