アジサイを見に行ってきました

アナベルという品種だそうです。大人の頭くらい大きい
木陰には涼しい風も

日曜日、一人で幸手市権現堂で開催中のアジサイ祭り(6月25日まで。期間を過ぎても花は咲いていると思いますが)に行ってきました。気温31℃とかなり暑かったのですが、結構たくさんの人が見に来ていました。

こういうイベントではわたしはいつも花より人を見に行きます。人間観察をしながら、見知らぬその人のストーリーを勝手に想像して楽しみます。すれ違いざまにふっと耳に入る言葉からイメージが広がることも、ままあります。頭に浮かんだ一瞬のドラマを、たいていはすぐに忘れてしまいますけど、ちょっと文章化してみようかなと思う時もたまにはあります。
 あるいは顔のコレクション。ただし、顔の写真は撮りません。あくまで記憶の中だけにします。顔や表情の観察は人物画を描くときには少なからずプラスになるんじゃないでしょうか。コロナ以来、コレクションにはマスクがとても不便です。

もともとは絵になる構図を探すのが主目的ですが、途中から腰が疲れてきて、100枚ほど写真を撮って帰宅しました。10枚くらいはトリミングすれば使えそうです(たとえば下の写真はどこかのシーンに使えそうに感じます)。まあ、暑い中を出かけただけの収穫はあったことにしておきましょう。

初夏

描き始め。完成がこれより良くなるという保証はどこにもないんですけどね 

「初夏」水彩 ファブリアーノ(コットン100%)紙

昨日(6月24日土曜日)朝、アトリエの向かいにある神社から神輿が出て、小さな町内を一回りしました。軽自動車に太鼓叩き達を乗せた先触れが、早朝サッと一回りしたあと、若い人たちが威勢よく担いでいきます。今年の掛け声は初めて聞く調子があり、アレっと思いましたが、もしかしたら担ぐ人の顔ぶれが違うのかもしれません。伝統もいいけれど、何かしらちょっとずつ変わっていく、それもいいものだと思います。

「駐車場のある風景」のアレンジです。マスキングの着け方にちょっと工夫し、一部を筆で擦りつけるようにやってみました。その効果はちょっと出ています。

色が少しボーっとしているのはコットン100%の紙だからということもありますが、若干「風邪をひいている」せいもあるようです。「風邪をひいている」というのは、「紙が風化している=湿気に晒されて劣化している」という意味で、水彩を描く人たちがよく使う言葉です。古いスケッチブックでもないし、置く場所には気を遣っていたんですけどね。
 紙が風邪をひいているかどうかは、描く前では見た目ではまったく判りません。ですが、筆を置いた瞬間に??と感じますし、絵の具をおいたあとなら、誰の目にもはっきり判るようになります。返品しようにも、スケッチブックの個別包装を破き、デッサンを描き、色を置いてしまってからですから、もうそれはできない?と諦めてしまっているので、これまでメーカー(販売会社)にクレームをつけたことはありません。けれど、これは本来メーカーもしくは販売店の品質管理の問題で、作家のミスではないのですから、いずれ納得のいくかたちで改善されるべきだと思います。「風邪ひき」で作家に嫌われ、潰れてしまった世界的メーカーは2,3あるようです。
 話が逸れてしまいました。この絵でわたしが描きたかったのは「自動車」です。特定の車種とかへの思い入れではなく、風景の中に「車社会という現在」を入れたかったということです。現代は地球環境に対しての視線は年々厳しくなっています。いずれは自動車などというCO2排出器はなくなるかもしれないという、やや記録的な視線で描いておこうと思ったのです。まだまだしばらくは車が消えることはないと思いますが。

絵としてはあくまで「初夏」の風情がテーマです。車はあくまで点景に過ぎません。爽やかな風を絵の中に感じられたらいいなあと思うんですけどね。

イカロス「再」墜落

「片腕の男」テンペラ・アキーラ  F6 2010

春から夏へ、梅雨という微妙なこの時季、皆さんいかがお過ごしでしょうか?活動が制限されたり、気分がパッとしないなど、雨が鬱陶しいという人は多いようですが、わたしは雨は嫌いではありません。なんとなく落ち着いて、一日を自分ペースで過ごせるような気がするからでしょうか。

雨の日はなぜか写真整理などやってしまいます。先日もパソコンの中の写真を整理しているうち、「飛ぶ男」などの作品写真や制作中のデータがおびただしいほど出てきました。
 「男シリーズ」とでもつけたらいいのか「飛ぶ男」「浮かぶ男」「シェルターの男」などなど、「○○の男」というタイトルの作品をたくさん描いてきました。その過程で「少年と犬」「海峡」「イカロス」「○○のヴィーナス」等のシリーズも生まれてきました。
 現在進行中の「Apple」もシリーズ化しかかっていますが、実はこれはもっとも初期に一度シリーズ化し、中断を経て50年近く続いているものです。心理的には「男シリーズ」にもずっと繋がっている感覚ですが、どういうふうにつながるのか、自分でもきちんと整理できていません。今から数年のあいだがラストチャンス、元気なうちにこれらを何らかのかたちにまとめないと、もう時間が無いとあらためて思いました。

 表題の「イカロス」をちょっとだけ説明します。ギリシャ神話に、天空の細工師(大工)ダイダロスが息子のイカロスに、大空を自由に飛び回れる翅を背中に作ってあげたという話があるそうです。「決して太陽には近づくなよ」という父の注意も、若く活発なイカロスには馬耳東風。結局は太陽に近づきすぎたイカロスの翅のロウが溶けて脱落、イカロスは海に落ちて話は終わりですが、わたしの発想はそこから始まりました。
 イカロスは死んだのでしょうか?おなじく大工の家に生まれたわたしは、イカロスをこの21世紀に海から引き揚げ、わたしが空想で翼を創りなおし(そういえば「僕たちの翼(200号)」という作品も描いたなあ)、もう一度空を飛ばせたらどんな風景が彼の心の中に見えるだろうか、それを絵にしてみようと想いました。それが「飛ぶ男」です。
 「飛ぶ男」つまり現代イカロスはおよそ3000年ぶりに「新生」シリーズの何点か(「新生no9」は 2,1×5.4mの大作でした)を経て、脱皮し、生まれ変わり、19世紀的な都市の上空をすでに飛んでみせました(「飛ぶ男」(200号)大宮市での個展、晨春会展等にて発表)。次に20世紀の都市の上を飛ぶイカロスを描いていた時、東日本大震災が起き、わたしは続きが描けなくなってしまいました。
 1000号ほどの大きさの絵で、天空での大洪水が下界の都市にまで注ぎ込み、そこに溺れる人物を300人以上描き込んだところでした。洪水と津波の違いはありますが、まさに東日本大震災そのままの絵で、仮にこの絵を仕上げても、どうせ震災の映像を見て描いたのだろうと思われるだけだという想いと、この時期に絵など描いていていいのか、という考えが重なったからでもありましたが、物理的にも制作のための時間と場所を失ったからでもありました。描きかけの絵は丸めてほぞんしてあるかどうかも今は定かではありませんが、制作中の写真が数枚パソコンの中にはあるはずです。

パソコンでの写真整理をしながら、その未完成の絵を軸に再制作し、すべてのシリーズを一枚の絵にまとめることができたら、、わたし自身の最後の作品としてふさわしいだろうと考えていました。わたし自身がイカロスになって、再びもとの海に墜落して終わり。いいストーリーかもしれないと思っています(笑)。
 ※不勉強で、最近まで安部公房「飛ぶ男」があることを知りませんでした(未だに未読)。まあ、どこにでもありそうな題名だなと、最初から思ってはいましたが。
 ※この絵、今朝(06/23)のタイタニック号鑑賞ツアーでの潜水艇タイタンの残骸が発見されたというニュースと、かたちのせいか、どこか重なって見える気がします。