時間という「魔術」

これは何でしょうか?

写真をご覧ください。これは何でしょうか?—「らっきょう漬け」です。こんな黒いらっきょう漬けなんて、ほとんどの人は見たことないと思います。10年以上漬けたものだからです。

これ、まだ食べられるかな~?と言いながら、恐る恐る妻がガラス瓶から取り出したのは、得体の知れない真っ黒なモノ。なに、これ?—らっきょう漬け。ずっと前に作ったものだけど、食べられなかったら捨てようと思って・・。

部屋を片付けている時、隅から出てきた。記憶にはあったけれど、雑多なモノが折り重なり、積み重なって、再びその場所に辿り着くのに10年以上の時間が経ってしまった。何万㎢という広い部屋かのような言い方ですが、ごく普通の8畳間+アルファ。そのアルファに、それは忘れられてしまったかのように長い間置かれていました。
 匂いを嗅いでみましたが、悪い感じはしません。それどころか、ほんのりと上品ささえ漂います。体のいい“毒見” なのですが、箸で触ったとたん、滑らかに箸の先が沈んでいく―こ、これはスゴイかもしれない―ねっとりした触感と、絶妙の深い味わいでした。「これ、すごいよ、絶品!」と思わず叫んでしまいました。酢漬けの奥深さにもあらためて感動です。

普通の砂糖の砂糖の代わりに、沖縄の「黒糖」を使ったとのこと。唐辛子もちょっと入れたらしいのですが辛みは感じません。らっきょう漬けと言えば新鮮なシャキシャキ感が魅力ですが、それとこの触感はおなじ素材からとは想像できないほど違います。「もっと作って」と言いたいところですが、これを作ったのは妻ではなく、本当は「時間という魔術」。今から10年後では(もしかしたら5年でも、3年でもいいのかもしれませんが)、生きているうちに味わうことができるかどうか、微妙です。でも、ヨカッター、とりあえずこれを味わえて、と本当に思いました。
 皆さん、もしも古い酢漬けが残ってしまったら、捨てる覚悟であと2~3年保存してみたらいかがでしょう。魔法が現れるかも知れませんよ。

本 Book

「透明な水」 ただいま制作ビデオを編集中

すっかり本を読まなくなってしまいました。目が悪くなって読みづらくなったこと、パソコンに時間を取られてしまい、かつそれで目が疲れること。近くに書店が無くなってしまったこと、コロナで図書館が長い間休館したこと等々が重なったこともあります。でも、一番の原因は知的な好奇心のレベルが下がってしまったことのような気がします。

新しいこと、それまで知らなかった分野に明るくなることは、たぶん誰にとっても楽しい。だからこれだけパソコンや携帯電話(名前こそ未だに“電話” だが、中身はほとんどパソコンです)が普及したのでしょう。知りたいことがすぐに分る、「検索」への需要がそれだけ大きいということでしょうか。

けれど、一方で「何を」知りたいのか、という興味の対象についてはどうでしょう。そのことをAIに訊いてみると、検索される項目の上位が、美容・コスメ、エンタメ、その時々の話題のニュースなどのようで、わたしの“偏見”もあるでしょうが、あまり知的な好奇心からというわけでもなさそうです。「情報」のほとんどが目の前のこと、刹那的な消費に流されているといってもいいかもしれません。
 それは情報の「軽さ」とも深く関わっていそうな気がします。パソコン、携帯で検索される情報の多くは「タダ同然」です。使い捨てても惜しくない情報です。時間ロスも長くても数分で済みます。
 本(紙の。以下、紙の本のことについて話します)はそうはいきません。ちょっとした本を買うと一冊1000円ぐらいから(少し専門的になると)1万円くらいはします。内容についても書店まで出かけて行って直接見るか、レビューなどでよく調べてから買うことになるでしょう。お金も時間もかかります。買った後も読む時間が絶対的に必要です。その本を置くスペースも取られます。いわゆるweb 情報に比べると、格段にコストがかかります。

わたしのような旧人類・アナログ人間には、このコストをかけないと頭に入らない「習性」が染みついてしまっています。本を読むことでしか、ひとつひとつの断片的な知識が体系化されず、体系化されない知識は応用が利きません。
 本を読むには案外な体力(意識を集中し続けるためのストレス)が要ります。年齢や生理的な体力とは別に、本を読まなくなると、この体力はすぐ落ちてしまいます。当然、新しい体系的な知識や考え方などが入ってこないことになり、それまでの知識だけでやりくりする羽目に陥ってしまいます。時代についていけないことになるわけですよね。
 パソコンに取り込まれてしまわないためにも、(古いツールのように思われようと)やっぱり本を読まなくちゃなあ、とあらためて思ったことでした。

「水の透明感-習作」

「水の透明感ー習作」 水彩

気づかずにいるうちに、すでに学校などでは夏休みに入ったようです。子どもが成長して、学校と縁が遠くなるとこんなことにも疎くなってしまいます。その夏休みの初日に、全国で何人かの子どもが水難事故に遭ってしまったというニュース。ちょっとの差で助かるチャンスも有ったろうと想像すると、本当に残念で、なおさら痛ましく感じます。

夏の水遊びは、子どもにとってはこの上もなく愉しいことです。わたし自身もそうでしたが、わたしの子どもも野外での水遊びが大好きで、いつまでも止めようとしませんでした。そろそろ帰ろうか、と言うといつも「帰んない」。ずっと付き添って、飽きるまで遊ばせてやりたいと思いながら、閉園のチャイムに押されて無理に連れて帰ったことなど、思い出すといまでも心がシクシクします。

わたしは漁村で育ったので、海や川は日常の環境そのものでした。その中で何度か怖い経験をし、警戒心と危険に対する想像力が働くようになったように思います。水難事故に遭う子どもが気の毒なのは、そういう経験を経ずにいきなり危険の中に引きずり込まれてしまうことです。そうした経験の積み重ねがせめて一度か二度でもあれば、目の前の自然に対しての眼差しが鋭くなり、危険への想像力が違ったかも知れないと思います。
 高山とか深い海などの場合は誰でもそれなりの心構えをします。が、身近な自然には、つい「安心」のオブラートを被せてしまいがちです。「 “知ってるつもり” の自然こそ危険」だと思っています。

話題が跳ぶようですが、「野生動物」はみな臆病です。いや、警戒心が人間よりずっと強いと言うべきなのでしょう。食物連鎖の頂上にいるライオンや虎でさえ、寿命を全うすることは、ほぼ不可能なことだと言われています。いつか、どこかの段階で、自分自身が食われてしまうか、争いなどで命を落としてしまうことを彼らは毎日経験しでいます。目の前の危機と、それに対応する自分の能力とに関するセンサーが、人間よりはるかに鋭敏なのだと思います。
 「磯あそび」について楽しく書こうと思っていましたが、そんなニュースに触れてしまいました。