プーチンの戦争2

Apple  F4 テンペラ

ロシアの民間軍事会社ワグナーの総帥、プリゴジン氏が死亡した、というニュースが、昨日8/24世界を駆け巡りました。遅かれ早かれ、いずれは….と誰もが思っていたのでしょう、驚きはどこにも見られなかったようです。

そして、多くの人が「あの時、モスクワまで一気に入っていれば、殆ど無抵抗でプーチンを拘束できたかもしれないのに」とも思ったのではないでしょうか。そうすれば、本心では戦争に行きたくない(たぶん)ロシアの若者たちには熱狂的に支持されて、来年の大統領選挙で圧勝できた可能性もなくはなかったのに、土壇場で躊躇したばかりに真逆の結果になった、そうも思った人も少なからずいたでしょう。古代ローマの将軍、シーザーがルビコン川を渡ったときほどの、勇気も準備も足りなかったようです。

プリゴジンが乗っていたプライベートジェットをミサイルで撃ち落としたようですが、だいぶ前、当時中国ナンバー2だった林彪(りん・ぴょう)が権力闘争に敗れ、軍用機で国外脱出しようとしたところ、領空から出る寸前、ミサイルで撃ち落とされたことを思い出しました。これから(すでに?)おそらく関係者が一斉に粛清されるのでしょう。独裁とはこういうことですが、命までは奪わなくても、国会があっても無視、なんでも閣議決定で進めてしまうやり方、マスコミを金と権力で思い通りにするやり方も “見えにくい” 独裁体制のかたちではないかと思います。

ロシアではプーチン氏への支持率は依然高いままだそうです。独裁の意味を知り、有意な行動ができる若い人たちの多くはすでに国外脱出(60万人以上とも!)しているようですから、プーチンが(脳以外の)健康であるかぎり、この戦争は残念ながら終わる気配を見出せません。

ゴール Goal

「Appleー一人で行く」テンペラ F6 2023。08.22

この絵では下半分は不要です。手で隠して見て頂ければその意味が解ると思います。ところがキャンバスを半分に切るわけにもいかず、下半分になんとか意味付けをしようと、2ヶ月ほど無駄な時間を費やしました。まあ、手のかかったエスキースだと思えば、無意味でもなかったでしょうけれど。

もたもたしているうちに、性格の異なる二つのアイデアが一つのイメージを共有しているような、どこかバランスの悪い(居心地の良くない)絵になってしまいました。下半分を切ることは、一つのアイデアを捨て去ることなんです。さらに最近の作品の流れを意識し過ぎて、ちょっと細かい描写?が多くなり過ぎです。余分な時間をかけ過ぎると良くないことの好例ですね。

とはいえ、とりあえず終了することができました。ゴールにたどり着くことはマラソンと同じように大切なことです。ゴールして初めて、あそこがダメ、ここがいい、次はこうしてみようと冷静に見ることができるようになります。途中で放棄してしまう場合よりはるかに多くを知ることができます。ゴール地点の高みから、スタート以前からの全体を俯瞰することができるようになるからですね。放棄する場合でも、いったんゴールまでのご褒美を受け取っているので、悔いなく処理することができるのです。終了した直後から、次の絵を発想、スタートすることができました(現在制作中)♪

砂漠でわさびを育てるような

2023..08.20 21:40 やっとアップしました

かなり時間をかけて編集(かかり過ぎ)、予定よりまる一日以上遅れて、昨夜配信しました。毎回面白く、役立つようにと少しずつ工夫しているつもりですが、どうも一人で空回りしている感じがします。

たくさんのYouTuber が同じように感じ、それに対応しようと頑張りすぎて、身体を壊してしまう人も少なくないようです。わたしがチャンネル登録している人の中にも、突然しばらく投稿がなくなったり、しばらく投稿休みます、などとメッセージが出たりしています。
 わたしはせいぜい “一週間に1本出せればいい” レベルのまだまだとぼけた方ですが、何十万人ものチャンネル登録者を運営しているYouTuber などは、ほぼ毎日どころか月に50本とか100本とか投稿しているので、いくらスタッフがいたり、編集やサムネイル作りを外注したりしていても、寝る時間を確保するのさえ難しく、過労は避けられないと想像できます。

YouTubeからクリエイターに対して、健康管理に注意するようメッセージが届くのも、そのことを反映しているのでしょう。確かに面白くないよね、と自分の動画を見て思いますが、かといって一時的に無理なキャラクターを演じてみても、もっと負担が増えるだけで、何度も続けられないでしょう。結局はコツコツと工夫を重ねていくしかないのですが、アップするたびに砂に水を撒くような感じはとてもメンタルに響いてきます。

動画作りに慣れるにしたがって、様々な編集技術を覚え、動画は滑らかになっていきます。けれど、面白いかどうかはまったく別問題、感性の問題です。必ずしも内容の問題でもありません。学校に通っている時、同じ数学、英語という教科でも、先生によって授業が面白かったり、つまらなかったりするようなものです。これはたんに知識とか技術だけではない何か・・・が、あるかないか、なんでしょうね。