ランプに灯をともす人

英国ロンドンで、街灯をガス灯から電灯に替える案に対して、残すべきだというキャンペーンについての記事を、BBCワールドニュースで見た。ロンドンのウェストエンドと呼ばれる地区(ウエストミンスターシティ?)にある275個の古いガス灯を電気に、すでに電灯に置き換わった30個をLEDに替えるということにまつわるストーリー。

メリーポピンズ、マイフェアレディやシャーロックホームズの世界に我々を連れ戻してくれる、それがロンドンという「生地(fabric)」の一部だという、“いかにも”な意見も紹介されていて、当局もその雰囲気を壊さないよう、「ガス灯のような効果」をアピールしてしているようだ。すでにLEDに交換された“ガス灯”の写真も載っているが、もともとを知らないからわたしには判定の仕様がない。
 ロンドンには15000を越える街灯があるらしいが、そのガス灯に毎夕灯を点けていく仕事をしていた老人がいよいよリタイアする、という別の記事もだいぶ前に見たのを思い出した。それも、いかにも“英国らしさ”を感じさせる、いい記事だった。

BBCだから、なにより写真、映像がきれいだ(ちなみにナショジオも同じ理由で、もう数十年購読している)。そこに映る人々の表情も素晴らしい。英文記事が読めなくても、インタビューが全然聞き取れなくても、それを見ているだけで癒される。
 イギリスは古い国だが、世界の流行の発端を創りだす新しいアイデアの国でもある。たとえばポップアートやロックンロールなど、歴史の深さとそこに生きている生活と思想との重なり方が、同じように古い歴史を持つ日本とはどこか似て非なるものを感じる。外からうわべのきれいごとだけ見ている面もあるだろうが、同じように保存キャンペーンを取り上げるにしても、すぐに「反対運動」としてだけ報道したがる日本のマスコミに、一灯一灯ランプを灯してあるく老人の、なんとも言えない「人間の顔」は映せないだろうな、と思ってしまう(写真を載せたいが、権利の関係で無理)。

陰影

編集中の動画「つるバラを描く」から

「影を落とす」という言葉がある。文字で書くとき、「陰」は遣わない。「陰」は日向(ひなた)に対して、日の当たらない側を指す語で、そもそもかたちを持っていない。間接的にしか視覚化できないのだから“落ちようがない”。

一方、「影」は光に照らされた物体が、( 陰の側に)そのかたちを視覚的に“投影された”もの、文字通り「投げだされた=落ちた」ものである。時期、時刻によってかたちも変わる。シャドウとシェイドの相違だ。

「(戦争が)人生に影を落とす」というような言い方は、両方の“感じ”を持った比喩だが、現実問題として今度のウクライナ戦争では、ウクライナの人々はもちろん、兵として戦争に駆り出されたロシアの一般人、その家族はどんな気持だろうとも思う。YouTubeなどをみると、ウクライナへの共感は解るとしても、ロシア兵をまるで“虫けら以下”ででもあるかのように扱っているものが少なくない。かつての戦争で農村から招集された多くの日本兵がそうであったように、彼ら一人一人が皆ウクライナ人を殺そうと思って銃を取ったわけではないだろう。ブチャ等での虐殺などは見過ごせないが、そうした見方もまた、戦争が私たちの心にも影を落としているからなのだろう。

「健康」をはじめ、あらゆるものが私たちの人生に影を落とす。それとは気づかないうちに、あるいは気づきながらも日々の行動をそれらに掣肘(せいちゅう)されていたりする。どうにもならないこともあれば、気づくことで変えられることもあるだろう。立ち止まり、自分の影を見ることも時には必要かもしれない。

変相-絵画はまだ終らない

同じ紫陽花(あじさい)の試作の中から3枚掲示してみる。仮に上から順に1、2、3と呼ぶことにするが、描き方は少しずつ異なっている。3枚とも同じ用紙、同じ光線条件で写真を撮っているはずなのに、なぜか1枚目だけ紙の色が違う。当然、花の色も2,3とは変わっているはず。どうしてでしょうね。

1はデッサン主体。2は色彩主体、というよりほとんどデッサンがない。3はほぼその中間。こうやってみると最も「絵画的」とわたしが感じるのは2。アジサイという「植物種」から離れて、色(明暗を含む)とかたちだけの「造形本位」の度合いが強いから。並べているからアジサイだと推測されるけれど、2を単独で見たらアジサイと認められるかどうかは半々だろう。もう一歩押せば、もう誰もすぐにアジサイとは判定できなくなる。

これはわたしの(いま現在の)感じ方であって、見る人はそれぞれ勝手に感じればよい。ただ、その場合でも、先に述べたような(1はデッサン・・のような)分析的な区別はしなければならない(その分析的なファクターは個人個人が自由に設定してよい)。なぜなら、それが「ものの見方」そのものだからだ。そのファクターが独創的であるほど、ユニークな視点(分析力)を持っているということだと思う。この場合は個人個人のフィルターと言っても、フルイ(篩)でも、色眼鏡と言い換えても内容は変わらない。

同じモチーフを、たとえばこんなふうに表現を変えて制作してみることは、絵画の質を深める有効なプロセスになる。表現(法)ではなく、アイデアの方を変えることも昔からよく行われている(絵画では変相・ヴァリエーションと言われるのがそれ。音楽の「変奏」も同じ意味ではないだろうか)。
 絵画ではモチーフ本位の「何を描くか」と、コンセプト・表現本位の「どう描くか」の論争がかつてあった(らしい)。わたしはそのあとの世代だが、その時代のコンセプトとは別に、若い頃は「何を描くか=テーマ」が大事だと思っていた。当時は絵画が社会的メッセージとしての力をまだ持っていると思っていたから。
 今は?―わたしは「絵画の歴史的生命」はすでに尽きた、と考えている。けれど同時に、絵画はまだまだ終わらないとも思っている(残光?)。説明は省略するが、そこが人間とAIまたはロボットとの違いだと思っているから、とだけ言っておこうかな。