青いカモメたち

sさんの練習帳から
Tさんのフェルトペンによるスケッチ
Tさんのフェルトペンスケッチ2

青いカモメの絵画教室の2つのクラスの人の、Sさんは個人練習帳から1枚、Tさんは先日のスケッチ会のものを2枚ピックアップさせていただいた。

Sさんの水彩スケッチは、難しい対象を選んでしまったかもしれない。モチーフの実物も見せてもらったが、ほぼこの通りだった。微妙な色のグラデーションで、そのうえややドローンとした図柄。ひとことで言えばちょっとデザインが良くないのだが、それはSさんのせいではない。しかも描くために選んだのではなく、必要で買ったものを描いたまでのこと。よく描いてある。このような素材を、時間を括りだしてはコツコツと自らの練習台にしている。継続は力なり、をかならず体験するはずだ。
 Tさんのスケッチには、子どもの絵のような楽しさがある。本人的にはともかく、一見遠近法を無視したような描き方が、そんな感じを強く引き出している。透視図法的な感覚がしっかり身についていないせいもあるが、仮にきちんと正確な図法で描かれたら、この面白さ(不思議な空間体験と言えばいいんだろうか?)がもっと出るかと言えば、たぶん真逆だろう。絵画の奥深さはじつはこういうところにある、と思う。

写真のように正確な描写、技法・図法・色彩理論などの正しい理解、それは確かに人を納得させるには必須の条件だった。少なくとも多くの人々が比較的「無知」であった近代までは、視覚を通して“教育”するのが絵の役割の一部でもあったからだ。「客観性」がなければ教育は説得力を持たないから当然である。
 ところが、現代では「人間というものはよく解っているようで、実はよく解らないところがある(変な)生き物だ」ということが、以前よりずっと分かってきた。人間への理解が深まるほど、一方で謎はむしろ深くなってきたのである。やや極端な言い方をすれば、明日、自分が何を考えるかは、その時になってみなければわからない。「客観性」と「主観性」の境目が再び曖昧になってきているということでもあるだろう。

そのような人間理解のなかでは、「人間の物の見え方は透視図法だけが正しい」などと主張する方が「正しくなさそう」である。透視図法や写真的正確さは、比較的説得力のあるひとつの表現法だ、と考えておくのがせいぜいで、そこにこだわって良し悪しを判断するのは適切ではなかろう。もちろんSさん、Tさんの描き方が正しいという言い方も、同様の意味でおかしい。―これは確かにわたしの絵だけれど、まだ「わたしはわたし」と言い切るまでの自信はないわ、とそれぞれの絵が小声で語っているのも正直で好ましい。

ポインセチアのスケッチ

やっとこさで一つビデオをアップできた。40日近く一本もリリースできなかったが、特別忙しかったわけでも、体調が悪かったわけでも、サボったわけでもない。自分としてはかなり頑張ったつもりだったが、できなかった。

この動画も、もとは2時間以上の動画だが、それをカットしたり、早送りしたりして22分くらいまで縮め、いったんまとまったような気がした。でも、そうしたら自分が感じていたことがどこかに消えてしまい、他人はともかく、自分で見て実にもつまらないものになってしまった。かといって、2時間だらだら垂れ流すほどの勇気はない。そういう動画を3本もぐちゃぐちゃとこね回していた。

スタートに戻り、この強烈な赤へのチャレンジが今回のテーマだったことを思い返して、そのエッセンスだけを動画にしようと思ったら、1分20秒で終わってしまった。何十回も動画を繰り返し見ているうちに自分のなかで煮詰まっていき、それで十分というところまできてしまった。「そもそも動画をひとに見せる必要ないんじゃない?」というところまで、あと一歩。そこを踏み越えてしまえば、もう動画をつくる動機がなくなってしまう。一種の虚無。

ここでは、プロセスは蛇足のようなもの。その説明を見聞きしたところで、何か具体的なものが分かるわけではない。まあ、そんな風に描くんだろうなと、予想通りの展開にうなづくだけ。―なるべく続けて、未完の“22分バージョン”の方もアップしたい。面白くはないが、たぶん具体的なヒントは、そちらでは得られると思う。「どちらか」ではなく、「どちらも」やってみることに、もう少し気持ちを向けないといけないようだ。。

ポインセチア

「ポインセチア」 フェルトペン

 

ポインセチアをモチーフ用に数鉢、買い替えた。時期のものだから、あとから店頭に出てくるものほど立派な鉢になるが、値段はだんだん下がってくる。年が明けたらもっと下がるかと言えばそういう期待は昔の話で、今は時期を過ぎればさっと消えてしまう。

フェルトペン 0.8mmで SM のスケッチブックに描いてみた。ペンが太過ぎるかと思ったがそうでもなかった、というよりピッタリだと思う。絵の世界では「大は小を兼ねる」ではないが、可能な限り大きめの筆やペンを使う方が、ゆったり、おおらかで骨太な感じがして好きである。

けれど、YouTubeなど見ると、細い筆を何本も持ち替えて、これでもかというほど微細で写真的な表現をアピールする動画で溢れている。カメラの性能が良くなって、素人でもシャープな写真を撮ることが容易になっただけでなく、世界中の多様な表現に触れる機会も、まるで呼吸をするように無意識的なまでに、当然のこととして見ることができるようになっている。リアリティのレベルが10年前と今とでは格段に違うのだ。そのような状況に慣れた目に耐えるには、顕微鏡を覗きながら手術をする医師のようにメスを、じゃなかった、筆をとっかえひっかえ、針に糸を通すような緻密な描写が必要だと感じられているということなのだろう。

ゆったり、おおらかなんて、たぶん旧石器時代の化石か何かのように、それらに血道をあげている人には感じられているに違いない。でもこう言おう。現代人は皆ラスコー洞窟の野牛の絵を越えたのか、レオナルドダヴィンチを越えたのか。歴史書を繙くまでもなく、人間のやっていることは先年前と大して変わらない。太い筆で、ノッタリ描こうよ。化石と思う奴には思わせておけばいいじゃないか。