ハンディ

「飛ぶ男」

「ハンディ」と言えば「便利」という意味が思い浮かぶが、今日のハンディは「ハンディキャップ(handicap)」、不利な条件とか身体障害(者)のこと。

ハンディキャップのある人に対する社会的なケアは、理想からはまだまだ遠いとはいえ、日本だけに限って言えば10年前、30年前、50年前、100年前と比べて、全体としては前進していることは確かだろう。けれど、それは政治家のおかげではない。確かに制度を法律として決めるのは議員だけれど、そうしないと当選させないという民意の圧力のおかげだ。

わたしも実はその民意の圧力のおかげを蒙っている一人。障害の一番軽いクラスだから、当然利用できる範囲もそれほど広くはないが、100 km以上の鉄道利用について基本運賃の50% の割引がある(あっても利用できる人の体力の方が…)。ただし今般のような政府がかりの「(行け行け)go to」キャンペーンのような場合はその対象にならないことが多い。あくまで日常の範囲に限られる。そこにはハンディキャップに対する「公平性」の圧力がかかっているからである。
 「公平性」は現代社会の「正義」である。何者もこれを曲げることはできない大原則であって、曲げるためにはやむを得ないと思われる「ハンディキャップ」か「特権」が要る。「正義は厳しい」のだが、人もそうである必要はない。
 日本中に子どもが溢れていたころは、年齢の離れた子も近い子も(ときには大人も)一緒になって遊んでいた。そこではハンディキャップがむしろ「公平性の保証」だった。中学生からまだ入学前の幼児までが、同じゲームを一緒に楽しむためには不可欠な考え方だとさえ思われていた。審判員などいない「遊び」のなかでは、どこの空き地でも、年長の子が知恵を絞って、上手に一人一人にハンディ(キャップ)を与えたものだった。そうやって自然に人間観察の眼を養うことができた。

社会の中で、制度としてのケアは確かに前進してきた。一方で少子化が進み、同世代でさえ一緒に遊ぶ機会がどんどん減っている。公平性の理念に縛られ、弾力性が失われてきているように見える。いやいや、こういう言い方は危ない。すぐ統一教会か自民党あたりに利用されそうだ。先日電車内で、内部障害があることを示す「ハート・プラス・マーク」を、リュックに下げた少女が障害者優先席にいるのを見かけた。世界中の子どもの寝顔を知っているサンタさんに、ハンディのある子にどんなプレゼントをするのか聞いてみたいものだ。

動画の向こうから聞こえる

ちょっとしたドラマ

今日はクリスマス・イブ。わたしたち家族は一足先に昨夜、ちょっとだけ外食で済ました。そのあとブログを書いて寝た、つもりだったが今朝見ると「ない」。アップロードしたつもりで、そのまま夢の中へそれを持って行ったらしい。

動画らしい動画を意識して作り始めたのは2022(今年)の6月頃から。YouTubeチャンネル開設は2021年9月だが、それからしばらくはCGスケッチとそれをアップロードするまでの手順の練習しかしていなかった。6/28に開設以来の視聴1000回。回数など気にするレベルではまだ全然なかったが、なんとなく嬉しくなってこのブログで報告した。8月末に2000回。いま12000回を越えている。最近は特に加速して3日で1000回に達する。単純計算すると、1日あたりの視聴回数が6/28時点の100倍になったことになる。

人気チャンネルだとアップして1時間も立たないうちに数万回になるものもある。そういうものと比べると小さく見えるかも知れないが、それでも一日に数百人という人が視聴してくれるというのは凄いことだと思う。「YouTubeは暇な人が見る」という人もいるが、必要で見る人も案外少なくないのではないか。視聴回数などの増え方を見ていると、視聴者はより高密度、より効率的なものを、強い欲求で求めているように感じる。けっして暇を持て余し、どうでもよい動画を眺めているのではなく、むしろ「時間というコスト」を厳しく追及する人たちが、現在の自分の要求にぴったりのものを探しまくっている姿が浮かんでくる。

動画を作っていると、「もっとちゃんとしたの作ってよ」「もっと効率的、もっと解りやすく」という欲求のオーラがデータから放射してくる。数が大きくなると、その声も姿もわたしを揺らし始めるようだ。作る側はその声に応えるとも押されるともつかない気持ちで、次の動画を作り始める。もしかして、ステージ上の歌手と観客の拍手もそのようなものだろうか。
 YouTubeのクリエイター向けの動画がある。その中に「体を壊さずに作るには」というのがあった。確かにそう。大きな欲求に応えようとすればするほど、時間も体力もそこに吞み込まれそうになる。限度というものがない。今日はクリスマス・イブ。

都会の中の孤島

「無題」 フェルトペン 

「スマートフォン(またはパソコン)からの各種申請が出来ない人」という言葉が時どきニュースなどの中から聞こえてくる。ちょっと調べてみると、スマートフォンの普及率は90%、パソコンは70%(世帯当たり、2020、総務省)。スマートフォンの普及率は2022ではもっと高くなっていると思うが、持っているのと使いこなせるのとでは全然意味が違う。

先日ある人と数十年ぶりに電話をしたら、スマートフォンもパソコンも持っていないという(ガラケーは持っている)。たまに東京都からの通知を知るときなどに不便を感じることがあるが、だいたいはほぼそれで問題を感じることはない、とも言っていた。

「それで不足、不満を感じない」。ここに「都会の中の孤島」があるんだな、と思う。たとえ話だが、かつて日本の農家では牛や馬を使って農作業をしていた。もちろんすべての農家が牛馬を飼えるはずはなく、それを所有できる農家はある程度の富農に限られる。牛馬の無い農家で、小さな農地なら「それで不足、不満を感じ」なかったのではないか、そういう農家の方が圧倒的に多数でもあったろうし。けれど、牛や馬を使っていた農家がそれを失ったときはどうだろうか。不足・不満どころか、何とかしてそれに代わる、より効率的なものを欲しがるのではないか、たとえば耕耘機(こううんき)とか。

都会の話をしているのに日本の農家の例ではいかにも頓珍漢だったが、要するに「発想の広がり」のこと。「不足、不満を感じない=自足自給=足るを知る=小さな幸せ」的な発想は、ある意味現代の日本にも通底している、ひとつの発想のように思える。一方、(持たざる人から見れば)「牛馬は贅沢」かも知れないが、それは耕耘機という新しい機材への眼を開き、さらにトラックなどその次の広がりを喚起する。そして「小さな幸せ」は「小さな幸せ」どうしを繋ぐ手段も失い、どんどん「不足も不満もない」自分一人の「孤島(孤独ではない)」になっていく。そんな絵が見えた。

電話口の人はもう80歳を過ぎている。「まだ80歳」というパワフルな人ももちろんたくさんいるが、スマートフォン、パソコンをまったく新しく覚えるには結構な忍耐が要るような気もする。「時代に遅れないように」と軽々しく言わずに良かったかな、と少し複雑な気持ちが残った。