人形

人形 (水彩)

昨日、今日と「Apple-田園」の制作を休み、昨日は国立新美術館、今日は教室とそれぞれの時間を過ごす。制作中断は絵の具の乾燥状態に合わせて。

美術館へは久しぶりどころか、電車に乗るのも久しぶり。コロナ禍下、政府とその下で医療提言を行う専門部会とやらの提言のおかげで、一定の医療破綻は免れたらしい。一方で、過度の「外出自粛」ですっかり滅入ってしまった精神状態と、「移動・集合の制限緩和」というブレーキとアクセルを交互に踏むような政策による解放感とのあいだで、一種の分断が起きてしまっているようにも見える。

体長20㎝ばかりの、外国製の人形。その頭部の水彩スケッチ。十年以上前、誰かに頂いたものであることは間違いないが、書いてあるスペイン語のほかの情報はすっかり忘れてしまった。人形は漫画と似て「目が大きいのが決まり」だが、この人形の眼は一般の人間サイズ。しかも(「ぷっくり」というより)「ちょっと太りすぎでは?」というところが、妙にリアルで気に入っている。

Apple-田園。明日から「胸突き八丁」

Apple–田園 (9/22終了時)

今日は午前中教室。みんなあちこち身体的不調があったり、お彼岸だったりするのによく来てくれた。わたしは地元の人間ではなく、お墓もお寺も縁がないのでそんなこと頭にも浮かばず、絵のことだけ考えて教室へ行ってしまった。

作品は20日から始まったのに、今日(9/23)でもう前半戦は終了。ここまではエスキース通りでよかったが、ここから先は一瞬の判断、一瞬のひらめきが作品の出来を左右する「胸突き八丁」。期間は判らない。創作の醍醐味はまさにそこにあると思うのだけれど、画像(映像)的には、伝える主体(わたし)自体が瞬間、無意識的だし、仮に専属カメラマンがいたとしてもその瞬間を共有できないなど、視聴者までの間に幾瞬間のあいだに何層もの遠い隙間ができて、結局何も伝えられないもどかしさだけが残る後半戦になる(と思う)。が、それを逐一報告することは(したくても)無理。多くのメディアが「(各作家の)その瞬間」を捉え、伝えようとしたが(わたしもビデオを製作する側になってよく解ったが)、今現在のメディアのレベルでは、それはかなり希望的なレベルのことだと思っている(でも、テクノロジーの日進月歩には期待)。

写真は今日(2022.9.22)の「終了時」。下辺左右には余った「ゴールデンイエロー」。貴重な色材だが、鶏卵で作った「生もの」絵の具なので数日間の保存をあえてせず、もったいないゆえに塗ってしまった。画面4分の1より下は「エスキースの未熟さ」が露わになってしまった。大切な部分なのになんとなく曖昧にごまかしていた。やっぱり批判がなければぬるま湯に浸りやすい-ですね。ぼちぼち絵の具の乾き具合も考えて、明日から1~2日は(大事な部分に)加筆せず放置しておく方が良さそうだ。その間にだってエスキース、小品制作、美術展(個展)回りくらいはできるし。

色、使い過ぎ?でも、もっと使う

Apple-田園 (9月21日終了時)

今日は早起きして整形外科へ腰と指の腱鞘炎のリハビリ。早起きしようとしまいと、結局午前中の時間はクリニックで遣い果たしてしてしまう。待合室で待つ間、4人がけソファのわたしを間に入れた3人のおばあさん方は左右(どころか看護師を含む院内の半分くらい)顔見知りらしく、おしゃべりの途切れる時間が一瞬もない。自家産野菜を大きな袋に持ってきて、知り合いと交換ごっこなど、まるで「道の駅」。わたしは、彼女らの間で(出来るだけ小さくなって)ずっとiPadでエスキースを続ける。時々チラチラと「違和感のある存在」を見るような視線を感じながら。

一見すると、絵は昨日とほとんど変わらないように見えるでしょうが、2度塗り、3度塗りしているところもあって、全体としては結構順調に進んでいるんですよ。むしろ順調過ぎるくらいで、こういう時に限ってトラブル(例えば8月中のようなひどい腰痛とか)が起きやすいので、早めに進めておかないとヤバイことになる経験は豊富。

右上の葉っぱの部分は、普通に緑色にする予定だったが、テラ・ロサと白のピンクがあまりにきれいなので、「色だけ」このまま仕上げまで持っていくことにした。その反面で、いったん「保留」にせざるを得ないところも当然、ある。伝統的な油彩混合テンペラでは、途中で何度か薄い透明層を施して画面の堅牢化と色の統一感を図る(グラッシという技法)が、この絵ではそういう方法を使わず、ある程度バラバラなまま、途中で造形要素個々のチェックをしながら進めていく。それがわたしのテンペラ技法。