追体験(ついたいけん)-ルーベンス

クララ:ルーベンス作
「クララ:模写」(制作中)

ルーベンス作「クララ」を再々再々模写をしている。たぶん4回くらいは繰り返しているだろう。「ルーベンス」という、世紀を超えた絵画の天才がその愛娘を描いたせいぜい6号サイズの油彩の、その模写である。脱線するが、父親というのは“娘”に関しては特別の感情を抱くものらしく、「娘」の傑作は数多いわりには、「息子」の傑作はあまり無いようだ(ルーベンスには二人の息子を描いた60号ほどの油彩画がある。長男?の顔だけを原寸大で模写したことがある)。多くは「息子本人」による自画像で、男子の場合は「自助」努力なしでは達成できないようである。母による「息子」の肖像はどうなのか、そんな研究があるかも含めて興味深いテーマではある。

本題に戻る―わたしの「模写」はルーベンスの完成作に比べると「格下の娘」だ。でも、描いているうちに、実際のクララはこんなふうな“おてんば娘”じゃなかったかなーと一瞬想像するのは楽しい。目をつぶれば若きルーベンスが、可愛い娘が少しでもじっとしているよう、なだめたりお話を聞かせたりしながら、描くべきところだけを、可能な限り素早く描いている情景が浮かんでくる。

わたしの記憶によれば、描かれたころのクララはまだ5歳。12歳かそこらでこの世を去る娘に、ルーベンス的直感で「描いておかなくては」と思ったのかも知れない(根拠は何もないが、“芸術家だから”で十分だろう)。

目的が「模写」だから、これからできるだけ上の写真(の作品)を真似て描くつもりである。見えている色の下にはどんな色があるのか。どんなプロセスで描いているのだろうか、それを文献(というほどのものでなくても)などを利用して調べ、どのくらいの力を筆に加え、どのくらいの速さで筆を動かしているのか、そんなことを試行錯誤しながら追体験していく(プロセスが大事で、似ているかどうかはあまり問題ではない)。そっくりに真似るというのは下品とかではなく、絵画の秘密を知るための「(最短の)ひとつの方法」なんです。

チョコブラウニーを描く

チョコブラウニーを描く(水彩)

金曜日の水彩クラスでのモチーフ。久しぶりに実材(実際の絵の具)でのデモンストレーション。教室の開始前に鉛筆デッサンをしておいたものの、クラスの時間内に色を着け終わることはできず、結局深夜まで。日をまたいでやっと描き終えた。

技術と想像力の関係は鶏と卵のようなものらしい。「初めにイメージありき」が論理的には理解しやすいが、「技術がなければ想像することも難しい」とあのパウル・クレーが言うと、「そうなのかー」と現実を突きつけられたような少し苦しい気持にもなる。

上手になるには一定の訓練が要る。それは誰の眼にも判りやすい。だから多くの人は上手(な絵)を賞賛しがちだ(そこしか分からないからという人もいるが)。そうした中で、一種の成功体験が次への励みになる人は多いと思うけれど、皆が皆、そういう流れの中にいるとは限らない。

明快なものは他人にアピールしやすいだけでなく、自分自身でもスッキリして気持ちがいい。でも、世の中そんな単純な人間やことがらだけで満ちているわけじゃない。うじうじ、むにゃむにゃが心のどこかにあるのがむしろ普通ではないか。そうした心の状態に耐える、それがすでに力になっているのではないか。かつて数学者の森敦氏が「すぐ答えの出るようなものはダメだ。何日も考えても答えが出ない。『考え続ける力』が数学には必要なんだ」と言っていたのをふと思い出した。

チョコレートは研磨材‐さくらクラブ 2

N さん

かたちを正確にとるのが苦手なNさんは、そのぶん?技法や素材研究にはひときわ熱心である。その探究心は趣味で絵を描くというより「研究者」のようだ。今回はともかくかたちをしっかり、などと言っていたが、バッチリでしょう。チョコレートもいいがグミ3個はこの人らしい研究心から。存在感すごい。

H さん

Hさんのスケッチは「原寸大」。きっちり計測して描いてある。実物は小さいので、それを原寸大で描くと、筆では描けそうにない細密なところをどう表現するかが問題になる。そこはスルッとスルーして、原寸大2枚目にチャレンジ。こだわりのナイスガイである。

T さん

なぜかIさんの絵の写真がない。確かに撮ったはずなんだが、うっかり削除してしまったかも。急遽、土曜日からT さんの絵を。T さんも自ら公言する細かい描写の苦手な人。でも、あっさり系ではなく、どちらかといえば「こだわり系」かな。それがいつも一種の迫力に至るのがこの人の個性。器用さ、ではこの重量感は出てこないのではないか。

どこにでもある題材を手あたり次第(でもないが)に描くシリーズを各クラスでやってみた。作者本人の満足度はともかく、それぞれのこれまでとはちがった新しい面が現れてきたのは大きな成果だと、わたしは感じている。わたし自身にとっても、いくつも発見があった。ダイヤモンドも、いくつもの方向から磨かれるから「宝石になる」。同じ方向からばかりの研磨ではただの板ガラスになってしまう。機会をとらえ、何度でもチャレンジしよう。