CG:コンピューター・グラフィックス

すわる女性 CG

上の絵は写真をもとに、ペンブラシというソフトで描いた。イラストなどを描く人の誰もがやる、初歩中の初歩のCG。誰でもやるが、誰が描いてもおなじになるわけでもない。たとえば写真の上にトレーシングペーパーを置き、その上から鉛筆でなぞるというだけの単純作業でも、十人十色のなぞり方をするようなもの。

「コンピューター・グラフィックスなど誰がやっても同じ結果になり、個性を発揮できずつまらない」と以前は考えていたが、今は違う。同じメーカーの鉛筆を使ったからといって、誰でもアングルやピカソのようなデッサンができるわけではない。CGは道具の一つに過ぎない。使い方にもむしろ「個性が出てしまう」。

一方で、コンピューターは鉛筆とか毛筆とかの画材の違いというレベルにとどまらない、別次元の道具でもある。自動車の普及が私たちの生活を変え、日々の考え方にまで大きな影響を与えてきたように、CGを経験することがわたしの思考法だけでなく、感性にも(いいかどうかは別にして)大きな影響をあたえ(てい)るのは間違いない。

その影響で自分がどう変われるのか、楽しみながらCGを描いている。このような絵や動画制作・編集。その前提となるカメラやパソコンそのものの基本知識。どれをとっても難しいし、考えるだけでも億劫だ。何十回も同じ間違いを繰り返すどころか、時にはすっかり忘れてしまう。誰のせいにもできないから、「お前が難しすぎる」とパソコンに当たり散らしながら、とりあえずこの瞬間もパソコンに向かっている。

図書館が開かない

Apple on the book (study, CG)

2020年12月下旬から、県立図書館などずっと休館が続いている。「不要不急」がむやみに使われているいま、図書館も不要不急の対象ということなのだろう。

図書館に本を借りたい人が行列を作っていたり、本棚の間が通勤電車のように人がぎっしり詰まっている光景を私はまだ見たことがない。だから少なくとも「三蜜(小池都知事が提唱した、実にくだらない省略語=密閉、密集、密接)」が休館の理由ではないはずだ。もし三蜜を理由に休館した公立図書館があるなら、そこは高度な文化地域だと逆に誇ってよい(休館前は「マスク」「離れて」「1時間程度」と怪しい館内放送はしていたが)。

大相撲が終盤に差し掛かっている。上位3強不在の盛り上がらない場所だが、それでもチケット購入の抽選に受かった5000人の入場者が国技館に集まっている。私は大相撲ファンの一人でもあるが、正直なところ、5000人の根拠はよく分からないし、三蜜でない(朝の)通勤電車があるとも思えない。それでも問題視されないのは、それが生活に不可欠だから、ということだろう。人には娯楽が不可欠だ。だから大相撲はいい。それは賛成だ。で、「知識や思索、教養」は生活には「不要不急」。なるほどそうか。

たしかに、少なくとも自民党国会議員にとっては「知識」「思索・教養」は不要不急どころか「禁止」にしたい「敵」なのだろう。菅首相の「学術会議会員任命拒否」は実に馬鹿正直なほどそのことを表している。彼らが求める「知識」や「思索・教養」とは、もっぱら経済活動(簡単に言えば会社のため)を進めるためであり、「思索・教養」とは「黙って指示に従う」従順さと、「長い物には巻かれろ」という思考停止状態を「社会のために役立つ」と勘違いさせることなのだろう。

そう考えれば図書館休館が長引くことは、よ~く理解できる。できることなら、「不要不急」の耐震診断とかやって、壊してしまいたいのが本音かもしれない。でも、そんなことをしているようでは、日本の未来など、没落以外の想像はできない。「ステイ・ホーム」のいまこそ「温故知新」、新しい知識や考え方、深い思索を育くむチャンスだろうし、それなくして「コロナ後」など老害地獄にしかならないだろう。公立図書館があまり活用されていないのは確かだが、だから休館しても大したことはないと思っているなら大間違いだ。むしろ、こんな大事なタイミングで、なぜ利用価値が見直されないのか、そもそもなぜ図書館があるのかを考えることは重要なことだと思う。生死を分ける「医療」と同列だとまでは言わないが、GO TOトラベルや何とかイートの比ではない、とは思う。

不要不急―2

「黄色の中の黄色の Apple」(study:CG)

2020東京オリンピックが延期になり、2021の8月に開催される予定も中止せざるを得ず、2032年立候補を考えている」と英タイムズが報じた。政府はやっきになって否定したが、検討していることはおそらく事実だろう。(日本のマスコミがこれを報道できなかった理由はなんでしょう?)

もういい加減に、世界中にごまかしをばら撒くのはやめたほうがいい。政府はやたらと「安全安心」も付け加えるが、この情勢でそんな言葉を使うこと自体、世界からの不信感を増すだけだ。かと思えば、すぐに「無観客での開催も検討中」と、これは公表した。なんで「安全安心」なのに「無観客」なのか、その論理の非常識さは幼稚園の幼児でもわかる。

オリンピックこそ「不要不急」の代名詞だ。いや、不要不急どころか、いまやってはならないと、国民の7割がアンケートにそう答えている。「人類がコロナを克服した証としての開催」だって(笑)、ちゃんと克服してからやればよいだけのことで、悪い冗談を通り越して不愉快である。けれど、「2021東京オリンピック」は不要でも、スポーツが不要だというのではない。むしろ逆で、こんな時だからこそ、どうやってスポーツを生活の中に普及させるられるか、じっくり考えてみるいい機会だと思う。

選手は気の毒だ。彼らの努力が並大抵のものではないのは誰でも知っている。だからこそ、きちんと中止だと伝えるべきだし、オリンピックだけが、メダルだけが選手のゴールではない社会環境を、このタイミングだからこそ作っていくべきだと思う。同じように、芸術・文化も不要不急のものではないことを、こういう時だからこそ考えるべきだと思う。まるでステイホーム=テレワークだけが推奨されているかのような状況だが、ステイホーム=クリエイティブ・シンキングこそ大事だと思う。