生死を分ける稜線

登山家ウェリ・シュテックが40歳でエベレストで滑落死するまでの半生を、スイスの放送局が編集したものの一部をネット配信で見た。「生死を分ける稜線」はそのタイトル。

「他の人が自分を見たら、あいつは気違いだというだろう」。彼は自分でそう言い、ある山では、落石に頭を直撃されて200mも落下し、二度目は友人を高山病で失う。「この山は自分のものじゃない」と二度も撤退しながら、結局は三度目にチャレンジする。「自分はこれまで挑戦してこなかったんだ。」たくさんの危険な岩壁を超人的なスピードで登る、登頂までの最短記録をつくりながらそう言うとき、彼の「挑戦してこなかった」とはどんな意味だったのだろうか。

一歩誤れば谷底へ真っ逆さまという危険な雪の稜線を、彼は実際に走る。「滑落死が常にとなりにある。」映像はそれが彼にとっては日々の練習でもあることを示す。

生きるということとピッタリ背中合わせの死。そんなぎりぎりの、極限の美学があるんだなあと思う。

「ほうとう」を食べた日

昇仙峡 2013

パソコン上で資料を検索中、古いスケッチを見つけた。絵画教室の数人と日帰りで昇仙峡(山梨県・甲府市)に行ったときのものだ。同じ構図のもの、中央の水面だけのものなど4枚ほどあった。

構図も面白かったが、何より水面の美しさに眼を惹かれた。以後、何枚も水面の泡立ちや、流れていく小さな渦を、明るい水面、暗く深い水面などを中心に描くようになった。そのきっかけになったのかもしれない。

何より、「元気だったんだなあ」と思う。この場所までは、きっと細い山道を数十分は歩いたのではないだろうか(ほとんど忘れてしまった)。帰り際、川べりの食堂で名物の「ほうとううどん」を食べたことはよく覚えているが。

身体が元気だと、感じ方も元気になる。そんな気がする。コロナになんか負けていられない。また外でスケッチしたいと思う。

だいぶへたくそになった

10本の薔薇  ペン

久しぶりに薔薇をペンで描いてみた。思ったより時間がかかったうえに、かたちがすべてゆがんでいる。途中でこれはまずいと思いながら、結局そのまま進めてしまった。

4日ほど前の夜、寝る直前に強い腰痛で、かなり長い時間痛みが引かなかった。そのうち脛のほうまで痛みがきて、結局朝までよく眠れなかった。幸い、翌朝は何とか歩くことができたが、今もずっと緊張感を持っている。

歩くどころか、まっすぐ立つこともできないこともあった5年前に戻った気分で、情けない。最低限の筋トレ以外ほぼ運動しないのだから、自業自得でもあるのだが、運動自体が腰痛の原因でもあるというジレンマだ。ここのところペンでのスケッチが多くなってきたのは、それの先取りだったのかもしれない。とつぜん歩けなくなる日が来る、などとは思いたくないが、それに備え、ある程度の覚悟もしておくことが必要かも、などと寝ながら考えていた。