何だか骸骨を見ているような

旧老部(おいっぺ)小学校 2019/8/26

廃校になってから十数年経つが、いまだに取り壊さないのはここが避難場所になっているからだという。何から避難するのかといえばほぼ「津波」以外にはないが、ここは海抜7〜8mしかない(それでも集落の中では確かに「高台」ではある)から、東日本大震災を映像で見た記憶もまだ生々しい私たちにとっては、果たして避難場所として適当なのか少し心配ではある。

教室は一直線に並んでいて、一学年1クラス。向かって一番右に児童用の玄関があり(画面外)、そこから1年生(右の白いカーテンのある)、2年生、3年生の教室が並んでいる。4つ目が職員室で、中央が先生たち用の玄関。玄関から左へ音楽室、4年生、5年生、6年生、だったはず。体育館や給食の調理室などは先生方の玄関からまっすぐ奥へ進む。体育館も大きくて広く感じていたが、今見るといかにも子供サイズだ。

妹が通った頃はもう過疎化してきて児童数が激減。全校児童二十数名で、私たちの頃の1クラスにも満たなかった、小・中学校の統廃合を繰り返し、村内で25以上もあった小学校が現在は1校のみ。それでも当時の老部(おいっぺ)小学校1校より少ないという。

一周200mのグランドは自慢の広さだったが、今はただ雑草が茂っている(地元の老人たちが草取りしたりするおかげで、大きな木が生えたりしないで済んでいるらしい)。何かに利用できないかなあと思うが、歩くのがやっとの老人ばかりの集落では、利用どころか維持するのさえ負担なのだと感じられる。

自然貧乏

「Appleのある静物・習作」(部分) 2019/8/25

今年の下北滞在はつい「頑張ってしまった」。28日に帰ると仮定して、たったの20日間、例年のごとく、頑張って仕事してしまった。作品の写真締め切りが近いせいもあるが、つくづく貧乏人根性が染み付いているんだなあと思う。

実はテントを持ってきていた(なのに、テントを張るようなところに1日も出かけなかった)。山にでも海辺にでもテントを張って終日ゴロゴロ寝転んでいればいいし、晴れたら海でも川でも釣りにでも行けば良かったじゃないか、と今頃になって釣り道具を用意する「気持ちもなかった」ことを残念に思う。

川は水が流れているだけではない(それは川ではなく、単なる水路のことだ)。昨日、黄貂の話をしたが、自然の川とはそれらの動物やその餌となる植物やら何やらと一体になっている、「環境」そのもののことだ。自然のそばにいて「環境」に関わらない時間というものを持っていいものだろうか。それが「雪の中であの美しい黄色をもう一度見たい」などと口走る自分の在りようなのだろうか。

「あ〜あ」。幾つになっても幼い我が精神よ(幼稚だと言っているだけですよ。「若い」という意味はありません)。「豊かさとはなにか」。考えるヒントはゴロゴロしているのに、ゴロゴロしない人には見えないんだなあ。がっくり。

下北の黄貂(きてん)

黄貂(きてん)。まだ若い個体だった

85歳の叔母がペースメーカの埋め込み手術をしてから今日で4日目。むつ市まで見舞いに行く峠の道で、路上に横たわる黄色のものを通り過ぎた。「黄貂だ」。中学生の頃、私も何度かわなで捕獲したことがあったので、すぐピンと来た。

カーブの坂道に沿って車をバック。肉付きのしっかりした、まだ若い個体だ。しかも車に撥ねられた直後らしく、まだ体は生暖かい。どこからも血も体液も流れていない。脳震盪程度であればいいと願ったが、残念ながら瞳孔が開いていた。

貂(てん)はイタチ科テン属の肉食動物。茶色や黒の毛色のものが多いが、下北産の黄貂は特に冬は非常に美しい黄色で知られ、かつては高値で取引された。この黄貂はまだ成長途中で、しかも夏毛だからそれほどには見えないが、黄色の根元の毛は白かったので、成長したらきっと美しい冬毛になったに違いない。数十年ぶりにみる野生の黄貂だった。

野生動物の保護は今では世界の趨勢。私も再び捕らえたいなどとは思わない。が、もう一度、降りしきる雪の中で、野生のあの美しい黄色を見たいとは思う。誰かが拾ったか、鳥か動物が咥えていったか、帰り道にもう姿はなかった。