絵の中の何を見ているのか-2

クリムト「公園」1910

見る人にとって、自身が既に獲得しているかたちや色彩のカタログ?とのある程度のズレは興味や好奇心を抱かせ、ズレの内容によって「好き・嫌い」などに分かれていく。ズレが大きければ時に衝撃となる。

このオーバーラップは(意識はされなくても)言葉によっても同時になされている。語彙の量はそれなりのハンディとなる。例えば「紫」という語を知らなければ眼には見えても、それを表現として使うことはできない。「紫」という語は色の引き出しを開ける鍵(文字通りのキーワード)だからだ。

かたちや色を考える時、自然再現的なそれらとのズレを工夫することが、単独のかたち、色の工夫より重要ではないかと考える。

 

投稿者:

Takashi

Takashi の個人ブログ。絵のことだけでなく、日々思うこと、感じることを、思いつくままに書いています。このブログは3代目。はじめからだと20年を越えます。 2023年1月1日から、とりあえず奇数日に書くことだけ決めました。今後の方向性その他のことはぽつぽつ考えて行くつもりです。

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