暑い夏の冷や汗

習作  アクリル  F8  2011

今日も暑い日だった。一日中汗の中にいる気分だ。我が家は3人家族でクーラーが3台。つまり各々が自分専用に使おうと思えば使えるのだが、この節電ムードが影響しているのか、暗黙に一度に2台までと了解がなされているようだ。一人は受験生なのでこれが最優先されているのは、まあ仕方ないとして、もう一台はお互い顔を見合せないようにして、ちゃっかり使うようになっている。3人とも室温は29度設定。我慢しているわけではなく、28度では何だか寒い気がするからだ。

明日はもっと暑いという。どこかの天気予報では40度越えの話も出ていた。昨日は長崎原爆の日。原爆資料館でみたたくさんの写真を思い出した。夜、NHKで長崎での占領軍司令官ビクター・デルノアの報道特集を見た。彼はドイツでも戦い、ナチスの所業を見てアメリカの正義を確信していたにも関わらず、長崎で原爆の惨状を目の当たりにし、その確信が揺らいでしまった。原爆は二度と使ってはいけない。トルーマンの決定は誤りだったという言葉が残っている、という内容だった。彼は確かレバノンの生まれだと言っていた。生粋のアメリカ人ではないところに、この透徹した視点が生まれたのではないかと感じた。

イギリスでは黒人と若い人の失業問題への不満(20代以下の失業率約20%!)から、警官による黒人青年の射殺をきっかけに暴動が起きている。借金のためにアメリカの国債が信用を失い始め、いやアメリカだけでなく、どの国も借金だらけ、景気も悪く、失業者が溢れているのに、金融世界のお金だけがジャブジャブと社会、地球上に余っているという異常さ。資本主義の終わりなのか?日本をみるとそれだけでなく、政党政治そのものが終わりを迎えているようにも見える。

 

科学(技術)と(政治)利用

月に吠える(部分)  F10 2011

冥王星の背後に大きな惑星が迫ってきているらしい。最近になって発見された。まだかなり距離はあるようだが、数千年の周期を持つらしいその惑星は、太陽系の惑星周期にも影響を及ぼす可能性大という。

まさか地球とは衝突しまいが、月が回転を止めて常に同じ側を地球に向けているように、地球も常に太陽に同じ面を向けるようにならないとは言い切れない。あるいは一年が365日ではなくなることも可能性としてはゼロではない。

また太陽系の外側に、地球の水の100兆倍のさらに千倍の水を持つ惑星も発見された。これらの惑星は皆最近になって発見されている。惑星は(太陽のように自ら燃えて?いる恒星と違い)暗いため、これまでの技術レベルでは発見できなかったのだ。これからは新しい惑星がどんどん見つかってくるに違いない。

大震災ですっかり消し飛んでしまったが、あの大津波さえなかったら福島県のアクアマリン水族館(だったか?)がインドネシア海域で古代魚シーラカンスの巣を見つけ、生きたまま一匹を採集する予定になっていた。昨年までに生息域の一つをかなり狭いスペースにまで特定し、そこで生きたシーラカンスの水中映像を世界で初めて捉えることにも成功している。数匹が近い場所に同時にいる写真も含め、少なくとも異なる5匹の個体を撮影した。私も泳ぐシーラカンスを見たいと期待していた。

アルツハイマーがなぜ起きるかはまだ十分に解明されていないが、器質的な原因以外ではアミロイドβというタンパクが脳内に蓄積することが原因と言われ始めている(始まりはもう30年も前からだそうだが)。ごく最近になって日本のある大学が、脳内のある酵素が(名前は忘れた)不足すると、そのタンパクが蓄積するようになることを発見したらしい。その酵素の不足自体が脳の老化であるらしく、その酵素を発生させるか注入するかでアルツハイマーどころか脳の若返りにも通じることになる。それにも有酸素運動を毎日続けることが(間接的に)有効だと思われている。さもありなん。

宇宙も深海も私たちの脳内も、ほんとはまだまだ分からないことだらけだ。だが、これらの未知への探求はどれも個人のロマンだけでなく、純粋に科学(技術)的興味と厳しい検証によって裏付けられている。

NASAのスペースシャトル最終便が無事地球に帰還し、計画は終了した。原子力発電は安全神話が崩れ、日本だけでなく世界が不安な眼を向けている。宇宙利用計画も、原子力利用計画もある意味で最先端科学の一分野でありながら、どこかに曖昧な、信用ならないものを感じさせる。

アインシュタインはこう言ったという。「原子力の(平和)利用は出来ない。原子力そのものは科学者にとっては(理解は)簡単だが、利用は政治判断だからだ」。福島原発で未完成な科学技術ということが言われているが、本質は、政治や経済という人間的欲望の絡んだ危うさをどう見るかという、人間の知恵の問題ではないかと考えている。2011-8-8

一日の長さ

パンジー アクリル F10 2011

夏休みという感覚を自分自身では感じなくなっていた。子どもがまだ小学生の頃までは、夏休みとは彼らの宝石箱であり、そこに何か特別の価値あるものを入れてあげなくてはと、普段よりせわしい、少しばかり追いつめられた気持の方が強かったように思い出す。

それが、今年は突然自分自身が夏休みに入ってしまった。休みを取ろうという積極的なものではなく、無理やり採らされたわけでもない。 要するに突然何もする気が無くなってしまい、結果的に夏休みになってしまったのである。

どこかへスケッチの取材に行く気持も起きない。絵もまるっきり進まず、筆を持っても知らないうちに置いている。本を読むわけでも、テレビをみるわけでもない。ただぼんやりと汗をかいては水を飲み、食べては眠くなり、まあゴロゴロしているだけである。7月はあんなに毎晩お酒も飲んだのに、8月になったら目の前にお酒もあるのにまったく飲む気がしない。これはどういうことなのか?自分自身でも意味が分からず戸惑っている。熱があるとか体調が悪いわけでは全然ない。むしろ以前より体は健康的でさえあるようにさえ思う。

今朝は午前中と午後の2回も妻と喧嘩。ご多分にもれず夫婦喧嘩の理由などくだらないに決まっているのだが、2度目は6時間も大声を上げ、喉も疲れるほどイラついた。原因はウォーキング用の通気性の好いショートパンツ。チラシには白、黒、濃紺の3色。白は嫌だが黒か紺なら良いと言ったのだが、買ってきたのは白。あらためて白は好まない、黒か紺が良いというと、せっかく買ってきたから穿けという。それに白も初めは少し気に入っているようだったと無理強いする。白は汗で汚れて見えるし、同じ白でも少し白すぎる。別に買い替えなくてもいいが、それを穿きたくはない(から返品)と言うと、再び同じことを繰り返して無理強いする。何度か双方同じ言葉を繰り返しているうち、白でも黒でも同じではないか!と言い募るので私もとうとう爆発してしまった。馬鹿野郎!絵描きに向かって白でも黒でも同じとは俺を馬鹿にしてるのか!という具合の馬鹿試合。これを延々6時間もやる元気があるのに、絵を描く気力が起きないというのはどういうことなのだろう。今は一日が長くて仕方ない。結局ショートパンツはハサミでずたずたに切り裂いた。

子どもの頃は誰でもそうだろうが、一日が長かった。しかし年齢を重ねるにつれ一日が縮み、ひと月もあっという間、一年でさえ瞬く間に過ぎ去るような感覚だったのに、なぜかこの夏になって、急に一日がおそろしく長くなった。

子どもの頃の一日にはぎっしりとあらゆるものが詰め込まれ、疲れ果てて瞼が落ちるまでの、明日はあれをやろうという、興奮に満ちた長さだった。しかし、昨日、今日の一日の長さはそうではない。自分が何も出来ない、何も出来なくなってしまったことを、水面に映る自分の顔をじっと覗くことで思い知らされているような、薄っぺらく、じりじりするような一日の長さだ。ブログに書くようなこともそろそろ無くなってきた。2011/8/7