モヤモヤのこと

人形  F4  水彩  2011

久しぶりの銀座でのグループ展が終わった。一年ぶり。最近は殆ど発表しなくなった。発表できなくなったというのが実情だ。描けなくなったというのはさらに真実に近い。

描けなくなった理由はいろいろあるような気がするが、一番は何と言ってもモチーフと画材を一度に換えた変えたことだ。モチーフを換えたといっても、自分なりにはそうは思っていず、そこにたどり着いたのだと思っているが、人の目には「あ、また換えた」とかんじられるらしいが、私の場合、同じモチーフがある期間を措いて繰り返し現れてくる。これは意識してやるのではなく結果的にそうなのだ。でも、また換えたのかという言葉は、いかにも一回限りの思いつきだと言われているようで案外につらい。

モチーフは画家にとって極めて重要だ。絵はただ描けばいいのではなく、一つの思想表現でもあるから、それを現わすのにふさわしく、感覚的にも適切なものでなくてはならない。私の場合、モチーフはふさわしいのだが、表現的には今一つしっくりこない。もっと慣れることも必要だし、構成法にも問題はありそうだし、他の問題も含め、その辺がモヤモヤと解決できずにいる。

描けない、発表できない理由はそのモヤモヤ未解決のせいだ。それがある程度見通せたらパーっと十歩くらいは前に行くだろうという予感はあるけれど、未だに予感のままで数年たっている。

自分で調べなさい

シェルターの花  F6   テンペラ  2011

スマートフォンが使いこなせない。まだ一ヵ月くらいだから仕方ないと思っていたが、息子に言わせると「概念が理解できていないから」。そのうえ、あまりにも基礎知識が無さ過ぎるのだとも。操作を覚えようとする姿勢がそもそもいけないという。概念が理解できてないうえに、操作を覚えてもいけないならどうしたらいいのか、と聞いたら「手に持った瞬間に使い方が分かる」ようになるまで、いろいろ試す以外に無いのだという。若い人は操作を覚えるのではなく、概念が理解できているから、機種が変わろうと、操作手順が変わろうとすぐ感覚的に対応できるのだというのである。

スマートフォンを普通のツールだと思っていることが基本的に間違いだというのは理解できる。使う人によって機能がどんどん変わっていくからだ。だから自分であれこれやってみれば、次第に自分の要求に合うようになってくる(する)筈だというわけだ。それを概念の理解と言うのかどうかはともかく、確かにそれなりに使えるようにはなるだろう。そもそもパソコンが理解できない(使えないのとは違うらしい)と駄目だから、パソコンの本(超基本概念の)から読んでみたら、と見放された。人に聞かず、自分で調べろって。

ちくしょうめ、お前にパソコンやiphonを買ってやったのは俺だぞ。教えたっていいじゃないか。悔しいから、何とかしたいものだが、それにばかり時間をかけているわけにもいかない。でも確かに目の前の操作ばかりに汲々としていては、いずれこれらに対応できなくなる時が来る。流行りのおもちゃで遊んでみようという好奇心を持てるかどうかが、対応能力への分かれ目だ。

暑い日が続きます

枇杷(部分) 水彩 F6 2011

暑い日が続いている。今日も暑いと、ラジオが言っている。なでしこジャパンはどうなったか。午前5時14分の時点では3対1でリードしていたが、勝敗はまだこの時間では分からない。・・オールJapanだの日本チャチャチャなど、一体性を強調されるのは嫌い(怖い)だが、なでしこJapanなどつい気にかけたりするのは何故だろうと自分でも疑問。

たった今、なでしこJapan、3-1で勝利とラジオで。なぜかホッとする。

昨日、埼玉県立近代美術館で埼玉二紀展を見た。絵画では多くは100号以上の大作を数点ずつ並べている。この暑い中頑張っていると思う反面、若い人たちの絵は個性的アイデアを競い、体力、気力を膨大に消費しながら描いているのに、できた絵はほとんどどこかで見た絵の、下手なコピーに見えてしまうのが気の毒だ。やがてこの中から、ひょっこりスターが現れてくるかも知れないとは思いつつ。(口が悪く、申し訳ありません)。

銀座でグループ展を開いている。若い人もポツポツ来る。ほとんどが絵を描いている人たち。現役画学生(既に死語だが)や新人社会人で絵との両立で悩んでいる人たちが、初対面の私に率直にそんなことを問うてくるのに少し驚く。彼らから見て、自分はそんな年なんだとあらためて思うと同時に、今の人たちは素直だなあと羨ましくも感じた。分かったようなことを書いたが、やってること、苦しむことは彼らと何も変わらない。暑い日が続くが、だらだらとでも、涼しくなるまで制作を続けていく。