夢の中で感動していました

桜を描くーアイデア・スケッチ

夢の中で、3人の若い黒人男性が、スケッチブックを手に、ボールペン(たぶん)で絵を描いています。そこだけ見ると、アメリカのように見えるけれど、どこかで「首都高のトンネルの入り口を描こう」とか聞こえていたから、あるいは “TOKYO” なのかもしれません。(なぜ黒人なのかは、夢の中のことなので説明できません。もしかすると、わたしの中の偏見が反映されているのかも知れませんが、できるだけ夢に忠実に再現していきます)

どうやら3人は旅行中らしいのですが、決してリッチな「観光旅行」ではないようです。やることもなく、行くところもないから、結果としてぶらぶらと「旅行」になっている様子なんです。3人は、それぞれちょっとずつ歳が離れているらしく、一応一番年上の男がリーダー?らしく見えますが、年齢だけ、ではなく、ちょっと背も高い。でも、それだけが、リーダーの「資格」のすべてのようです。彼には職業がないようです。なにをやっても、本人でさえ自覚するほど、何もできない人のようなんです。と、本人が言ってました。

リーダー以外の一人は、何かの仕事に就いていたようですが、クビになったのか、やめたのか分かりません。とにかく今現在は無職のようです。まあ、こんな旅行しているんですから、おそらく「有給休暇」なんかじゃないでしょう。一番下の一人はまだ、いわゆる就職というものを経験したことがありません。中学生か、せいぜい高校1,2年生くらいの年恰好に見えます。二人に出合ったせいで、なんとなく一緒に出歩くようになった、という感じです。でも、彼の家庭は、どうなっているんでしょうね。なにせ夢の中のことですから、彼の家庭環境までは分からないんですよ。ごめんなさいね。

行く当てもない「旅行」。お金もないから、ただ冗談を言って、お互いを笑わせ合うしかやることがなく、そのための言葉を見つけるために歩く。話題にできる場所に来ると、そこでジョークを交わし合う。それがずっと続く。
 トンネルの前で、「もう行くところないから、ここで絵を描こうぜ」と誰かが言いました。なぜか、3人ともスケッチブックを持っているのが、夢の中の不思議ですね(笑)。3人とも、誰かが見たら、どこを描いているのか分からないほど、下手くそなんです。でも、それまでのジョークがぱったり消えて、一生懸命、無心に描くんです。そんなに真剣に描いたからって、他に誰に見せるわけでもないのに。せいぜい3人で、ジョークのタネにしあうだけ。

目が覚めて、わたしは自分の目から、なにか水のようなものが流れているのを感じました(おしっこではありませんよ、念のため)。寝たまま、できるだけ記憶がズレないように、自分の身体も動かさないようにして、枕もとのスマートフォンを使って音声メモを採りました。―そして今、このバカバカしい夢の話を書いていると、なぜか、また目から水が流れてくるんです。夢の話って、不思議です。

ちゃんねるが合わない

12日ぶりにビデオをアップしました。お時間あれば、ご覧いただきたいと思います。ブログも8日ぶりです。記事を書くこともあったし、体調が悪かったわけでもなかったのですが、アップして、読んでもらいたいという気持がまったく起きなかったんです。

たぶん多くの日本人(90%位?)が持っているような、ごく軽い鬱をわたしも持っていると思うんです。それが時々顔を出すんでしょう。すると、なにをやっても無駄だ、という気持になって、やりかけのことも投げ出したくなってしまう。その一方で、「軽い」というのは、いい音楽を聴いたり、いい絵を見たりすると、すぐに元気が出てきて「もう少しだけ先へ進めよう。それから止めよう」とも思えるからです。

昨年いっぱいで、作品発表のほとんどの場から身を引きました。大きく見ると、わたしはどんどん「社会」から後じさりしているようです。社会の中へ出ていくこと、社会と関わっていなくては、生きていくことが難しいように世の中は作られているのですが、なるべくなら一人で居たい、という性格は子どもの頃から、あまり変わらないようです。かといって、一人で畑を作り、魚でも釣って自給自足するほどの知識も能力もなく、単なる願望にすぎないので、本当に一人で生きていくこともできません。

現在は絵画教室があり、それがなんとか社会とつながる接点です。絵を描かない、興味のない人たちと接点を持つことがほとんどありません。社会との、絵以外での接点を広げるような努力はまったくしてこなかった(絵でさえも積極的ではなかった)。そういう意味で、わたしは社会的「不適合」者だと、自分を位置づけています。たぶん「不適格」ではないと思うけれど、繋ぐことが上手にできないタイプなんでしょうね(「絆」なんて言葉も嫌いだし)。
 決して人間嫌いではないけれど、社交好きではない。ファーブルやシートンが好きなのは、そういうところがああるからかもしれません。でも、日本ではそういう人が増えているんじゃないでしょうか。つまり、一方でSNSなどで人とのつながりを求めつつ、一方でそれぞれが一人になりたがっている。そのジレンマの中で、誰もが「軽い鬱」を持っている。つまり、わたしのような人はごく普通だと言っているわけですけど。

身体というフィルター

思わず、ポカンと口を開けてしまった。そこにわたしのやったことが書いてあったから。ちょっと長いが引用する。―「たとえば、リンゴと言えば赤くて丸い果実のことですよね。もうガチガチに辞書的な意味が固まっていて、亀裂などない。だけど詩人は、言葉と意味の束縛を解いて、まったく違う意味を見つけます。リンゴを割った断面を崖の斜面に見立てたり・・・」―。まるでわたしが崖とリンゴ(今のAppleシリーズにつながる)を結び付けた瞬間を見ていたかのようだ。

今朝読んだ、朝日新聞デジタルでの連載「AIと私たち」の中で、郡司ペギオ幸夫氏が述べたこと(ちなみに、ペギオはペンギンが好きだからなんだと)。でも、次の瞬間、別のことも考えた。「例に出すってことは、誰にも分かりやすいってことなんだな」。飛んでる発想ではなくて、ちょっと横に一歩足を出してみただけ、ってことかと。もちろん、わたし自身もその程度だなとは、当時も今も思っているけどね。

こうも言っている。「AIそれ自体より、AIによって世界がすべて理解できると思いこんでしまう人が増えていることが、怖いですね(少し短くしています)」。解剖学者の養老孟子氏が「AIはバカの壁を越えられない。身体を馬鹿にするな、と言いたいね」と述べていることにもつながっている。

「何を描くか」の発想を考えるとき、(今はあまりしないが)まず詩集を手に取って、イメージの湧きそうな言葉を拾い出すことから始めていた。詩の内容はあまり深く理解できなかった気はするが、言葉から発想、空想を広げられるかどうかには、わたし自身の経験が重なることが必要だった。「身体というフィルター」を通して言葉と意味を行き来させるかぎり、そこには鮮やかな(個別の)ディティールが浮かび上がる。小さな突起で腕を擦りむいた―そんな身体性が、作品を支えていたんだなあ。AIが作る画像の空虚さが、まさにそのことを裏返しに示しているのだと思う。