絵を描くひとびと

「デンドロビウム」 水彩

6月1日、埼玉県浦和市にある、県立近代美術館で第72回埼玉県展を見てきた。土曜日だったこともあり、出品者も含め、案外大勢の人が見に来ていた。学校帰りの高校生(たぶん出品者だ)や多くの高齢者が目立った半面、20代~50代くらいの人はとても少ない。それがたぶん今の社会状況を示しているんでしょう。

審査にかかる出品数は毎年1000点を超える。かつては1500点を軽く超え、入選率も3割ちょっとしかなかった。いろいろ工夫をして(良かったかどうかは判断が分かれよう)、入選率は若干緩くなったが、それでも半分以上は選外になる。その中で受賞者になれるのは、たった16人だけ。さらにその上の無鑑査(出品すれば必ず陳列されるという権利)になるには、原則3回受賞しなければならないというルールがある。審査員がほぼ全員入れ替わる現在のシステムの中で、それは厳しすぎるのではないか、という話もちらほら出ているらしい。

会場で何人か知り合いの人と会い、何人かが故人になったことを知った。出品をつづけている人の作品を見ても、すっかりかつての面影のない作品もある(わたしもその一人かも)。でも、それはたくさんの作品群の中で見るから。個人の流れの中でじっくり見れば、きっとそれなりの存在価値を持って制作されているのだと思う。
 高校生たちの出品はあっけらかんとしている(ように見える)が、入選した作品を見るとモヤモヤした傷つきやすさのようなものを感じる。中には驚くような技量を見せる人もいるが、多くは画面を埋めるだけで精一杯。勉強もあるのだから、それで十分立派だ。部活の先生の指導もあるのか、あまり破綻がないのが、かえって残念と言えば残念な感じ。

入選、受賞率だけ見ると確かに厳しい数字だが、そこに若い(あるいは現役バリバリの)精鋭たちが集まって、過熱しているかといえば、それはない。そういう人たちはもっと厳しい別の世界を求め、作っている。そういう意味では、県展は現代と同時代進行しながら、過去を重くまとった別ワールドになりつつあるのかな。不自由な脚を引きずりながら、身の丈ほどもある作品を、子どもや孫の手を借りて出品する人たちを見ていると、それでもここに大事な世界があることを知る。

縮む

ある日(数年前)のスマートフォン画面から

水に潜るなど、水圧がかかる状態では人間の身体は縮んでいく。深く潜ればそれだけ水圧が高くなり、身体は更に縮む。

人体は老化によって(男女や人種などによってプロセスは若干異なるだろうけれど)、特に軟骨組織の減少によって骨格も縮むことは、経験的にもよく知られている。

男性のTシャツなどは、女性のサイズランクよりずっと大雑把で、基本S,M.L.LLの4種類程しかない(ジャケットや背広はもう少し選択肢があったような気がするが、着ることもなくなってもう忘れてしまった)。数年前まで、わたしは日本製ならほぼLサイズ(たまにLL)で問題なかった。けれど最近、妻がわたし用にMサイズのシャツを勝手に買ってくる。時にはSも。確かに、以前穿いていたジーンズなど、“ピッタリ” から袴(はかま)のようになってしまったことは自覚していたのだけれど。

脳だって身体の一部である以上、他と同じ程度に縮んでいても不思議ではない。頭蓋骨は硬くてそれほど縮まないから、頭の中が空洞化しているのかもしれない。そういえば、最近頭の中で谺(こだま)が聞こえるような気がする。記憶力、判断力、思考力等マイナスの自覚も大アリだから、サイズだけでなく、質も密度も縮んでいるらしい。「太る」話も聞きたくなる。

愛の深さ 2

「芍薬ー2024・5月」 水彩 F6

「愛の深さ」とは、結局のところ「関心の深さ」と非常に近いものではないか、と思う。たとえば、先日、フジコ・ヘミングさんのことを書いたが、彼女のピアノへの愛と、ピアノに対する関心、興味の深さと、それは本人にはあまり区別できないのではないだろうか。

子どもに対する親の愛情だって、子どもが何を感じ、考え、今どうなのか、それらは関心、興味の深さと言い換え可能なのではないか。強いて分けるならば、それに自分がどう関わって生きようとするのかという、能動的な立場の違いがあるかもしれないが、彼女の場合で言えば、違いなどほとんどないのではないかと思う。

もしも、そのアイデアが正しいとするならば、たとえば、絵画への愛の深さは絵画への興味・関心の深さだと言える。ただし、そのことは、絵を描かない人は描く人より絵画への愛が薄い(浅い)ということを、まったく意味しない。描くことが好き、観ることが好き、それぞれ別のものだと思うから。描かなくたって、好きな画家、作品、美術の歴史、美術の周辺技術など、興味・関心の対象となるものは、どれをとってもそれぞれ底なしに深いものがあるだろうし。
 要するに、通り一遍で、済ませられないものには、どれも愛を感じていると言ったら言い過ぎだろうか。スイーツ愛でもラーメン愛でも、必ずそこに自分の何か、たとえば時間、たとえば体力、たとえばお金というように、負担をかけてでも「もっと深く知りたい」「深く関わりたい」という衝動のようなものがある。それを愛と呼んでいいのではないか、ということ。

わたしたちは機械ではない。機械のような正確さも強さも持ち合わせない。コンピューターのような記憶力も計算の早さも無理。間違い、無駄なことを繰り返す。けれど止められない、知りたいこと、もっと関わりたいことがある。それは愛と同じものではないか?
 自分の胸に手を当てて考えてみる。なにかを愛しているだろうか。