スローライフ

「スローライフ」という言葉が流行語になったことがある。今ではもう死語になってしまったかもしれない。文字通り、ゆっくり、のんびり生きようという意味だけれど、それが消えてしまったのは、結局ほとんどの人の生き方が変わらないかったからだと思う。

スローライフとはひとつの思想でしょう。ゆっくり、のんびり生きるということは、そのために多くのことを犠牲にする覚悟が要るということでもあったのに、のんびりという気分、ゆっくりというカッコよさだけに憧れたから、ちょっとしたマイナス要素に行き当たった時、大多数の人々が恐れおののいてそこから雲散霧消してしまったのでしょう。

それでも流行語になったことで、その意識の一部は社会の中に残り、宿根のように、いつかこんどはちゃんとした芽を出す日がくる可能性を残したと思う。歴史は繰り返す、と言われるが、単純に繰り返すことはあり得ない。時間は巻き戻せないのだ。似ているようでも中身を変え、中身が同じでも違うかたちを取って現れる。

結局、もっとお金が欲しい、必要だという人(つまりわたしだ)にはスローライフは無理なのである。生まれた時から莫大な遺産があるような、そんな人がそういう思想を持てるならば可能かもしれないが、まあそういう人はいないだろう。生きていくのにやっとでは思想する余裕すらない。スローライフとは絵に描いた餅そのもの。けれど絵に描くことは無駄ではない。いつか食べてみたいと思うから。そしてそのために余裕なくあくせく働くのだから、望む方向とは逆ながら、結果的に社会の役には立っているのである。

都知事選投票日も「思考停止の日」

「いやなことは忘れても困らない」  水彩

今日は都知事選の投票日。期日前投票では前回を上回っているらしい。ということは当日の投票率が下がるということでもあるし、第一この暑さでは出かけることができない人も少なからずいるに違いない。なぜ電子投票ができないのか、そこにも今の日本の問題が顔を出している。

先週金曜日、銀座から青山へと画廊を回ってきた。銀座で都知事選の応援演説をしているところにぶつかり、ちょっとだけ立ち見した。関係者が、「通行の邪魔にならないように」と声を張り上げていたが、あえて通行人の多いところを選んで演説しているのだから、邪魔にならないわけがない。

選挙制度そのものをおちょくって見せる政党もあれば、ほぼ習慣のように立候補する個人もあったりするが、今回は現職+政権与党VS野党候補、それに話題の新人が絡むという、典型的な従来通りの舞台となっている。そこにこっそり食い込もうとする寄生虫集団が見え隠れ(今や堂々と、だが)する構図も変わらない。変わらないのか変えたくないのか判らないが、有権者としては何も考えたくないというのが本音なんでしょう。いや、もしかするとそれがメディアの姿勢によるものかもしれないけれど。

諦めでもなく、投げやりでもなく、無視するでもないが何も行動したくない、投票にも。そんな感じに見える。で、結局は何も変わらず。それが「安心・安全」と感じる人もいる。とはいえ、世界は一瞬の停止もないのだから、積極的な意思として「変えない」というのでもない限り、一周遅れ、二周遅れとなっていくのは当然だ。思考停止の結果である。
 もちろん、ただ流れに乗っていければそれでいいとも思わないが、思考停止を一種の脳死のようなものだとすれば、自分の身体が誰かに何かされてもどうすることもできない。それでいいんですか?と訊いても、考えたくないというのだろうけど。

風しだい

「グライダー日和」  水彩

グライダーはいったん飛び立てば、ある意味風次第ともいえる飛行機です。枯葉のように風まかせではなく、ちゃんとコントロールします。自然の風でサーフィンしているような感じでしょうか。

スマートでナチュラルでナイーブ。自然体な感じがカッコイイですね。無理やり、言葉的に人間に当てはめると「風来坊」とでも言えるんでしょうか、でもこちらはちっともカッコよく感じません。

人は自力で飛ぶことに憧れてきました。エンジンを発明し、その推力で短い翼でも飛べるようになり、もっと早く、もっと長く飛ぶことが目標になりました。そして、とうとう戦闘機を作りました。

グライダーもそれなりの規模で戦争に使われた例はあります。でも、結局その風来坊性が、グライダーを主役にはしませんでした。人間も、風来坊では(たぶん)戦争やあらゆる競争というものに勝てないでしょう。カッコ悪くても、それがいいところだとわたしは思うのですが。