分かったような気になる

「デコイつきの水指」  水彩、アクリル

分かったような気になっているのに、実はよく解っていないということがよくある。試せるようなものなら、試してみるとそのことを実感する。見えているのに見ていない、声は聞こえているけど聞いていない。文字は読んでいるけど理解はしていないってことですね。

それに老化が加わると一層厄介だ。眼が悪い、耳が遠いために「〇〇だろう」という憶測が入ってくるし、アップグレードされていない古い知識、これまでの人生で積み重なった勘違いや自分本位の記憶が、頑固さに変質しているのに自分では気づかない。本当は怖いことだが、毎日を知らぬが仏で過ごしている。

そのことを思い知らされるのが、事件・事故に巻き込まれたとき。あるいは何か大きな転機に立った時だろうが、それはもう恐怖でしかない。そこまでではないが、先日パソコンでトラブルがあった時のこと。
 いくつかのファイルのバックアップができない、と表示が出た。onedrive 経由でクラウドに保存するようにというメッセージ。これまでもonedrive では何度も痛い目に遭っているから出来れば使いたくないが、microsoft としてはできるだけ使わせたい。渋々、簡単そうな文言に釣られて、きちんと理解しないまま勝手な解釈でやってみた。やっぱりとんでもないことになってしまった。編集中のビデオの音声データや、全然関係ないと考えていた写真や、ドキュメントなども含め、デスクトップも持っていかれてしまった。
 結局自分ではどうにもできず、息子に Help ! データを失わないよう気をつけながら、小一時間かかって回復してくれた。自分一人では絶対に無理。少なくとも用語の意味とか、その辺のところからやり直さなくてはならなかった。分かったようなふりをした、痛いツケ。

ちゃんと分かるということは大変なこと。何度もやり直せ、逆からでもできる。そのくらいになって、はじめて「分った」と言えるのかも知れない。分ったと言えることなど、片手に足りない(5個もない)ことが、よく「分った」。

接点

「オウムガイ、酒器とシンビジウム」   水彩 F6

ここしばらく、YouTubeにビデオをアップしていなかったことは先日言いました。忙しかったのもあったけど、それ以上にヤル気が起きなかったからだ、ということも書きました。でも、水彩は続けていたんです。

教室もあったから当然と言えば当然なんですが、こっちの方はやる気があったんです。ですから、「何にもする気がしなかった」というのは、ちょっとオーバーでした。

なんで水彩にヤル気が出たかというと、「夕焼け」を描いたことがキッカケです。水彩ではグラデーションと滲みが一番水彩らしいと感じられている、と思う。じゃあ、何が何でもできるようにならなくちゃダメじゃん!そう考えてやってみると、「自分が思うほどには」うまくできないんだ。100%、いつでも完ぺきなグラデーション、滲みができるようになるにはどうしたらいいかな、なんて考えたら、ついつい連作することになったというわけです。

そいで、グラデーションと滲みをテーマのひとつにした動画「夕焼けを描くー水彩」を制作してみたんです。やってみて、グラデーションと滲みが “ヘッタクソー” だと自覚をさらにあらたにしました。水彩でも油彩でも、細かく描くことはいくらでもできるが、コントロールの効きにくい滲みこそテーマだ、と目下の課題にしました。そして、これを油彩的にはどう展開できるか、ということも考え始めたら、とりあえず無気力状態でいられなくなってきたように思うんです。無気力が悪いと言ってるわけではないんですけどね。

仏滅

        「夏の池」  水彩、F6

仏滅とは「仏の居ない日」という意味らしい。人々を救済することに忙しい仏にも、人間並みに休息日が必要だということでしょう。だから、その日は衆生はそれぞれ自分自身で身を護りなさい、と。

わたしは仏教徒、ではない。仏壇もないし、お盆だからと言って実家に帰り墓参りすることも面倒がってしない。まあ、無宗教と言うのが一番近い。でも、何か悪いことがあると「今日は仏滅かな」と、その時だけは頭に浮かぶ。昨日も仏滅だった。

一日中嫌な感じ、というより昨夜から何度も何度も思い出して、よく眠れなかった。一夜明けて今日は大安。大安なら逆に何かいいことがあってもよさそうなものだが、こちらは普段はあまり気にかけない。我ながら現金なものである。

午後から教室の人の絵を見て、自分でもちょっとだけ絵を描いた。絵を見たり、描いたり。やっぱり、これ以上の気分転換はない。大安である。